2013年2月18日月曜日

衛生学

 鴎外がドイツ留学をしたころ、衛生学というのは先端の学問であった。鴎外の留学の目的も、その公衆衛生学を学ぶものであり、近代衛生学の父と呼ばれる、ペッテンコーファーの元を最初に訪れている。ミュンヘン大学に最初の公衆衛生学講座を開き、初代教授となったペッテンコーファーのfirst nameであるマックスにちなんで、鴎外の孫に真樟(まくす)と命名したとも言われている。

 当時のヨーロッパ大きな問題であった、コレラの流行を、下水道の整備でかなり抑えることに成功したことが彼を有名にしたこととされる。コレラ菌がコレラの原因ではないとの考えや上水道より下水道の整備が大切だとの考えなど、後になって修正せざるを得ない間違いもあったが、衛生学を医学の一分野として確立した功績は大きいだろう。

 鴎外自身も帰国後に下水道の整備を強く訴えていたようだ。山県有朋などが、上水道の整備の方を優先するのに対し、日本において、下水道の整備も重要であることを主張していたとされる。

2013年2月12日火曜日

地下

 北九州において、戦時中には地下建築物や地下通路などがあったと聞く。空からの攻撃を逃れようとすると、どうしてもそうなるものだろう。古代ヨーロッパにおいては、都市の隅々に水を供給できる水路を作り上げ、その上に、つまり2階に町を作り上げたと聞く。だからイギリスでは日本で言う1階のことをground floorと呼ぶのだとか。そして、フランス語やドイツ語でもそうらしい。恐らく複雑に入り組んだ地下通路が今でも存在しているのだろうが、戦略的機密に属する事項であろう。そういえば、ヒトラーが地下通路を通って逃げたなんてことも、だからこそ信憑性を感じてしまうのでしょうね。

 当然、東京にもそのような構造物が存在していたと考えるのが自然だろう。

 そこで、鴎外が作成した東京方眼図を検討した人がいる。そして、その地図には帝都の地下経路が隠されているというのだ。ちょっとその本を読んでみようと思っている。どうも実際にはない地名が加えられていたり、補助線のような直線が加えられたりしているらしい。

 東京方眼図のことを知ったときには、なぜ鴎外が地図なんか作ったのだろう、と少し奇異に感じた。しかし、軍の中枢に近いところにいた森林太郎であれば、そして軍機密を地図に隠しこむということであれば、すこし納得しやすいような気がする。

2013年2月4日月曜日

唯識論


鴎外が安国寺の玉水俊虎から
唯識論の講義を受けたとされている

唯識論は大乗仏教の根本思想とも言われ
空の概念に繋がるものらしいのだが
その唯識論を学んだことが
鴎外自身の思索にどのような影響を与えたのだろうか

鴎外は特定の宗教を持たなかったとされているので
仏教のもつ宗教 哲学 科学 の三つの側面のうち
恐らく哲学や科学の面を吸収しようとしたのだろうと推測するが
鴎外自身が唯識論に言及したような文章は残されているのだろうか

親しく接した玉水俊虎からも
その彼が語る唯識論からも
きっと何らかの影響を受けていたと思うのだが

2013年1月11日金曜日

黒木為禎(ためもと)

 黒木為禎が西部都督(小倉)にいるころ、鴎外も赴任したことになる。薩摩藩士の子供で、日清戦争の時には第六師団長として出兵している。日露戦争においては第一軍司令官となる人物であり、ロシアとの戦争が避けられないとの見方が出てきていた1900年頃に黒木近衛師団長が小倉にいたということは、やはり戦争という面から小倉がかなり重要な位置を占めていたことが窺われる。

 小倉日記にはあまり出てこないので、鴎外との交流はそれほどなかったのかもしれない。日露戦争では、その勇猛果敢な戦術から、ロシア軍からはクロキンスキーとあだ名され、黒木率いる軍隊はくろき軍として恐れられていたという。

 またロシア軍を破った軍人として、アメリカでは乃木などより有名だったようだ。

2013年1月10日木曜日

つながり

 鴎外は多分野で足跡を残した人物であり、その人生を語る書物も多く存在する。それらを読んでみると次から次と有名人が出てくるし、その流れは幕末にさらには江戸時代へも繋がっていく。一人の人生が、多くの出会いと別れ、繋がりの中で織り成されていくものである、ということに改めて思い至る。

 わが身を振り返ってみると、有名無名の差は大きいとはいえ、やはり数え切れぬほどのつながりの中、今という時代を漂い、生き、生かされていることを感じる。

 研究者と呼ばれる人の中には、誰それの研究が専門、という具合に、ある人物の足跡を研究する人がいる。これまで、そういう研究に何の興味もなかったが、一人の人物を研究することはその一人にとどまらないことが少しわかってきた。一人の人物をとおして、その人の生き様を思い、生きた時代を感じ、多くの人物についても研究し、結局人生そのものについての思索を深めていくということになるのだろう。

 このようなブログを立ち上げたのも何かの縁。もう少し鴎外について、学んでみたいと思う。

2012年12月31日月曜日

ポンペ・ファン・メールデルフォールト

 ポンペは幕末に西洋医学を日本に伝えたとして歴史に名を残すオランダ人である。ユトレヒト大学卒業後間もなく日本へ派遣された彼は、大学の講義ノートを全て日本に持ってきた。臨床の経験は皆無であっても、解読困難なオランダ語の原書をひっくり返しながらつまみ食い的な西洋医学知識しか有していなかった当時の日本にとっては計り知れない恩恵だったであろう。化学や物理などの基礎から内科、外科に至る系統的講義を、ポンペ一人で行うという超人的ことをやってくれたわけである。

 このポンペの日本における一番弟子が松本良順である。実は鴎外の父親である森静泰はその松本良順の弟子に当たるわけで、ポンペからみると孫弟子と言えるわけである。

 鴎外はドイツ留学の期間中、語学力をかわれて赤十字の国際会議に随伴している。そのさい、このポンペと出会い、言葉を交わしている。ポンペにとっては、自身の若き情熱を傾けた日本での仕事を思いだすとともに、目の前の鴎外も自身の仕事に繋がっていることに深い感慨を覚えたのではないだろうか。

2012年12月27日木曜日

水質検査

 鴎外はドイツ留学中に数箇所で勉強をしている。その一つがベルリン大学である。当時は細菌学の黎明期で、その世界的リーダーであったと思われるコッホの下で学んだわけである。同時期、北里柴三郎もその研究室に身を置いていた。

 鴎外に与えられた最初のテーマは、ベルリン下水道の細菌検査だった。その成果については分からないが、そこで身に着けた水質への問題意識はその後も鴎外の中に流れ続けたのだろう。小倉においても水質に関する公演をしたり、紫川の上流まで水質調査を行いに赴いたりしている。

 ベルリンで水質に関する研究をするおりには、当然その後小倉に赴任することになろうとは鴎外も思っていないだろう。しかし一人の人生を概観すると、無駄というものはなく、全てはどこかに関わっているものなのだろうと思う。今、此処、の一期一会が大切なる所以であろう。