2012年8月31日金曜日

常磐橋

 1900年頃、紫川下流に架けられていた橋は、常盤橋だけのようだ。旧長崎街道の起点である室町という当時の中心地で川を渡れるようにかかっていたのだろう。現在その地に常盤橋としてかかっているものは、平成7年に木の橋として作られたものである。


 現在の橋が昔の橋と似ているのかどうかはわからない。鷗外登庁の際には、常盤橋を馬車などに乗って通っていたとされているので、そこそこの広さがあったのではないかと思うのだが、そうすると現在の橋は少し幅が狭いような気がする。


 最初の下宿地の鍛冶町より、2番目の下宿のあったとされる京町のほうが、常盤橋に近い位置にある。この地で生活するうちに、より通勤に便利な場所へ居を移したということかもしれない。

2012年8月29日水曜日

旅館 達見(たつみ)


 

「達見に投宿す」と鴎外の小倉日記に記載がある。小倉に到着した日、6月19日のことである。小倉駅近くの旅館、達見に宿泊したことがわかる。最初の下宿に入るのが24日のことなので、そこに5泊したことになる。


 

この旅館は、室町という当時の小倉の中心地域にあり、その後玉水旅館と名前を改め現在も存在するとの記載を見かけた。そこで、その界隈を散策してみたが、どうしても玉水旅館が見当たらなかった。現在室町といわれる地域はごく限られているので、存在すれば気がつくはずである。


 

その後ネットで調べると、どうも他の店舗になっているようである。今度、そこを訪ねてみようと思う。なにか面白い話が聞けるかもしれない。


 

2012年8月26日日曜日

常盤橋の広告塔

紫川にかかる常盤橋のたもとには

円形の広告塔が建てられていたことを

鷗外は「独身」の中で書いている


これは当時のヨーロッパにあった塔をモデルにしたもので

このようなものは日本で初めてのものだったようだ


鷗外は常盤橋を渡って

登庁していたとされるので

しょっちゅうこの広告塔を見ていたのと

その珍しさから小説の中でも描いたのであろう

鷗外が留学していた頃のドイツでも

当時パリなどで使用されていた広告柱が存在していたようなので

懐かしさも感じたのかもしれない


 

現在は当時の三分の一の大きさの広告塔を再現し

当時の面影を忍ばせている


2012年8月25日土曜日

陸軍第12師団


1898年に結成された

陸軍第12師団の司令部庁舎は

小倉城本丸跡に建てられた

その当時の正門の柱が今も残っている



第12師団の軍医部長を務めた鴎外も

この門を通って司令部に

登庁したとのこと







だが小倉城内を歩いても

わたしが知りたい衛戍病院分院の場所

がどこだったかを示すものは見当たらない

古い地図などがあるとわかるのかもしれない



2012年8月23日木曜日

隠流

鴎外の小倉時代を
沈黙時代と定義されたことがある
中央文壇への文章発表などが少なかったことなどから
そのような評価がなされたのであろうが
第二次世界大戦後にそれまで行方しれずになっていた
小倉日記(鴎外の小倉居住期間の日記)が見つかり
その研究がなされ
けっして沈黙していたわけではないことがわかっている

もちろん中央から小倉への異動は
鷗外自身にとって心楽しまぬ点も多かったと思われ
赴任当初は「隠流(かくしながし)」の号を使ったりしていたらしい

しかしいかなる人のいかなる人生においても
無駄となる時間はないものであり
鴎外においても小倉時代は
多くの出会い 多くの思索を通じ
次の人生への大きな転機となった時期とされている
二番目の妻を迎えたのも小倉時代である

2012年8月21日火曜日

小倉衛戍病院跡



 小倉医療センターの正面入口近くに、小倉衛戍病院跡と書かれた
碑がある。小倉営所病院、小倉衛戍病院、小倉陸軍病院、
国立小倉病院、国立病院機構小倉病院と名称や機構が変わり、
現在の国立病院機構小倉医療センターの名前となった。


 鷗外が小倉に赴任してきた頃は、小倉衛戍病院。衛戍地というのは
軍隊が長期間駐留する場所を示しており、その地に軍人の負傷や病気を
対象として治療を行っていた病院が衛戍病院ということになる。

 当時どれほどの規模の病院として運営されていたのかまだ調べていないが、
鷗外は病棟間を馬で移動したとも思われるので、ある程度の広がりのある敷地であったのではないだろうか。現在の小倉医療センターは、以前に比べると随分
敷地が狭くなったようであるが、それでもかなりゆったりした空間を持っている。



2012年8月19日日曜日

小倉駅

 鷗外が赴任してきた時に降り立った小倉駅は、現在の小倉駅と西小倉駅の間にあったと言われる。到着後の4~5日は室町にある旅館に宿泊しているところから見て、室町当たりにあったのではないかと思われる。

 ネット上で見つけた下の地図をよく見てみると、やはり停車場が室町あたりにある。2012年現在、量販家電店がある辺りのように見える。当時の小倉の中心地は、室町あたりだったようである。

 小倉城のあるあたりは、宣伝が印刷してある。おそらく軍関係の施設があるために、地図上には詳細を記載できなかったのだろう。

 また、中心を流れる紫川には、橋が一本しかかかっていない。鷗外が在任中に住んだと言われる二ヶ所は、いずれも川の東側。出勤の際には必ずこの橋を渡ったのであろう。




官僚

 小倉医療センターの源流をたどれば、小倉営所病院に至る。これは、1875年に歩兵第14連隊の医療機関として、小倉城内三の丸に開設されたものである。1888年に小倉衛戍病院と改称されている。

 日清戦争後、ロシアの南下政策に対抗する必用から、1898年に師団数が6から12に増やされている。そのひとつが小倉の第12師団。鷗外はその第12師団の軍医としての着任である。着任の数ヶ月前に、衛戍病院は小倉城内から北方に移され、城内の病院は分院とされたようである。

 鷗外はあくまで軍医であり、衛戍病院に赴任したわけではない。臨床医ではなく、エリート厚生官僚というイメージである。その主業務は軍にまつわることであり、出勤は小倉城内の軍司令部のようである。実際小倉日記に衛戍病院の名前が出るのは、司令部ちかくにあった衛戍病院分院が先である。

2012年8月18日土曜日

鱒渕ダム

 多くの軍人が駐留するには、飲料水の確保も重要である。軍医としての鷗外(森林太郎の名を使うべきかもしれないが、鷗外に統一する)は、衛生的な水の確保のための視察も行ったとされている。そして水源から水道を引くことまで考えていたらしい。

 小倉の街の中心を、紫川が流れている。街中の地下水では塩分を含む上衛生上問題ありと考えた鷗外は、この紫川上流まで水質を見に行ったようだ。そしてその源流近くから取水することを提案しようとしていたとされる。



 現在その地の辺りには鱒淵ダムができている。鷗外とその建設には直接結びつかないかもしれないが、水源として着目した鴎外の考えがそこにつながっていると考える人もいるようだ。

 鷗外との縁は、伏流となったのち、現在の小倉(北九州)に現れ、影響を及ぼしているのかもしれない。


2012年8月17日金曜日

北方衛戍病院日誌

 鷗外関係の書籍を少し見ていると、北方衛戍病院日誌というのが出てくる。もともと小倉衛戍病院というのは現在小倉城址のあるあたりにあったとのことだが、鷗外が赴任する二ヶ月ほど前に北方(現在小倉南区にある)に移転となっている。それまでの病院は分院として存在したようだが、現在の小倉医療センターは北方衛戍病院の流れを引き継いでいると推測する。
 この北方衛戍病院日誌なるもの、少なくとも現在の病院の図書館にはなさそうである。北九州市立図書館にでもあるのかどうか、今度聞いてみようと思うが、100年以上昔の記録が、どこかに残っているものだろうか。

ドイツ語

 わたしが医学部に入った頃は、外国語としてドイツ語が必須であった。医学の主流は英語圏に移っていたとはいえ、普段の医学用語としてもドイツ語が多く紛れ込んでいた。ある国の文化や技術などを学ぶには、その国の言語を学ぶ必要がある。
 明治初期に起こった普仏戦争。フランスが優位との戦前の予想を覆し、圧勝したのはプロシア。日本の陸軍は、その軍のあり方の範をドイツに求めることになる。当然ドイツ語の能力が高ければ重用されたと思われる。
 鷗外はそのドイツ語能力が極めて高かったと言われる。彼のしたためた独逸日記によれば、ドイツに到着したとき、周囲の会話が聞き取れたとの記載がある。東大にドイツ人の教授がいたとはいえ、ほとんど生のドイツ語に接する機会がなかったのではないかと思われる時代に、このことは驚異である。
 そして、鷗外が小倉に赴任しているあいだに行った、軍関係者としての大きな功績に、クラウゼヴィッツというプロシア軍事学者の戦争論翻訳がある。鷗外研究者の中には、ドイツ語に極めて堪能な鷗外にこの翻訳をさせるために左遷人事と取られるような、小倉第12師団軍医部長任命を行ったと指摘する人もいるようだ。

37歳

 森林太郎が、軍医部長として小倉に赴任したのは37歳のとき。現代の感覚では随分若く感じる。だがその年齢で、すでに軍医としては頂点に近い位置にまで到達していたのは、その才だけでなく不断の努力があったからであろう。

 木下杢太郎が鷗外没後彼を評して、「鷗外の一生涯は、休無き精進であった」と述べたとされる。軍務、医療、公衆衛生、文学、哲学、語学、芸術など広くその活躍の場を持ちえたのも、日々の蓄積無くしては不可能であったろう。

 さらには、才能や努力だけでなく、細やかな感性も有していたのだろう。でなければ、翻訳や芸術論などをなしえたはずは無いと思う。

 夏目漱石に比して、なんとなく近寄りがたい雰囲気を感じるが、その足跡をしばらくの間見つめてみたい。

生誕150年

 この場を開設してから、随分月日が経ちました。
このブログを立ち上げたこと自体を失念していました。

 今年(2012年)は、森林太郎が生まれて150年の年と聞きました。この機会に、小倉医療センターと関係のあった森鷗外についての忘備録風ブログを作ろうかな、などと考えながらPC上のファイルを整理していると、このブログがお気に入りのなかに埋もれていました。気を取り直して、再開したいと思います。

 写真は、国立病院機構小倉医療センターの地域医療研修センターです。医療に関係する集会などに利用されています。

 このセンターの名前は「鷗(かもめ)」と命名されていますが、それは鷗外の名前にちなんで付けられたものです。この由来を一般の方だけでなく、職員の中にも知らない人が出てきました。


 由来なんてどうでもよい、という方もおられるでしょうが、八面六臂の活躍をした森鷗外について学んでいけば、きっと得るものは大きいでしょう。