2012年9月29日土曜日

別当


 明治34年7月3日 午前六時小倉を発し、葛野村に至りて演習し、曽根に午餐す。苅田に至る比、北斗疲れて進まず。(小倉日記)

 北斗というのは鴎外が使っていた馬の名前と思われる。小倉から曽根を超え苅田に向かう途中まで歩かせたとなると、鴎外の自宅と衛戍病院との距離の3倍以上は歩かせたことになる。このあと、汽車で行橋に向かったようだが、馬はどうしたのかと疑問になる。

 鴎外の小説「鶏」の中に別当という言葉が出てくる。別当と言われると位がそこそこ高い人を指すように思っていたのだが、ここに出てくる別当は、厩務員をさすようだ。馬の世話をし、鴎外が馬を使うときにはそれを曳いていたのだろうか。それなら北斗が疲れて動かなくなったあとは、この別当が連れて帰ったことになるのだろう。

 やはり鴎外は、お抱え運転手付きの高級官僚というところだ。

2012年9月25日火曜日

衛戍病院と輜重兵営全景


新設第壱弐師団輜重兵営及び衛戍病院全景
  これも陸上自衛隊小倉駐屯地ないの資料館にあった写真である。左方の建物が衛戍病院で、その後方に広がる多くの兵舎が輜重兵営だと思われる。この写真の左奥方向にも軍施設が広がっていたはずである。また、写真の右方向が12師団の中心となる軍施設が広がっていたわけで、実に広大な規模である。

 鴎外が軍馬にまたがり巡視するにも、一日ですべての施設を看尽くせないのは当然であったろう。

 衛戍病院が占める敷地だけでも、敷地が広いと感じる国立病院機構小倉医療センターよりも広いと推定される。第二次世界大戦ころ陸軍病院となっていた頃には、衛戍病院よりさらに広かったと聞いたこともある。

2012年9月24日月曜日

第十二師団の配置図

 陸上自衛隊資料館で拝見した図譜です。近代の地図をベースに明治32年頃の軍配置図を記入したものと思われ、きちっとした地図ではないので、どこまで正確化は検証できません。ベースとして参考にしている地図は、昭和40年前後のものと思われるのですが、国道10号線のすぐ南を走る日豊本線が描かれていないのが気になります。また、今は無き小倉鉄道の駅として足立駅と書いてあるのは妙見駅の誤記である可能性があります。

 ということで、正確さという点では疑問が残りますが、随分広い範囲に広がり、帝国陸軍施設が存在していたことはよくがわかります。

 当時の北方は野原か田んぼが広がる地域だったでしょうから、広大な敷地が必要な師団を配置するにはこの地が必要だったのでしょうね。

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明治32年7月14日・・・始めて北方に至る。歩兵第四七連隊及工兵営を看る。(現在の陸上自衛隊の敷地から北九州大学あたりにかけての視察ということになる。)

同15日・・・野戦砲兵及騎兵営を看る。(図譜南端あたりの視察。)

8月2日 輜重兵第十二大隊営及小倉衛戍病院を看る。(小倉日記中に北方の衛戍病院のことが出てくるのは、この日が最初である。上掲載図譜が無ければ、「北方を訪れれば、病院にもすぐ寄れただろう」などと勝手な想像をしてしまいそうだが、これだけの広がりがあればそうもいかない。鴎外が初めて北方にある小倉衛戍病院を訪れたのは、この明治32年8月2日である可能性が高いと思う。)

2012年9月23日日曜日

小倉衛戍病院正門


 撮影された年月日はわからないが、小倉衛戍病院正門の写真である。現在この場所は小さな公園となり、まっすぐ続く道の方は、福岡県立北九州高校や小倉南区役所などになっている場所と思われる。

 この写真は、現在陸上自衛隊小倉駐屯地内にある、資料館で見せていただいたものである。言葉で書かれてもよくわからないようなことでも、一枚の写真があると、かなり明確なイメージを描けるものである。

 資料館内には、鴎外に関わるような資料はほとんどなかったが、帝国陸軍の時代からの変遷が大まかにつかめた。またいずれ訪れたいと思う。


陸上自衛隊小倉駐屯地内の資料館入口の門

2012年9月22日土曜日

始めて小倉衛戍病院分院に至る


鴎外は小倉到着後12日目の明治32年6月30日に小倉衛戍病院分院を訪れている。
上の配置図で見ると、師団司令部の南西にほぼ隣接するように存在している。
もともとはここが衛戍病院そのものであったようだが、第12師団の誕生に伴い、北方の軍施設近くに移転となり、この病院が分院と呼ばれるようになったとのこと。

現在の北九州市立中央図書館前の広いエントランス広場あたりになるだろうか。そして歩兵第14連隊は市立図書館から周囲の公園、さらには小倉北区役所あたりまで含む範囲に広がっていたようだ。火薬庫という文字も見え、まさに軍施設という趣である。

明治時代の小倉駅

 最初の小倉駅ということになるだろう。鴎外もこの駅に降り立ち、この駅から東京へ戻ったのだろう。

 写真の説明では、場所は現弥生会館となっているが、現在ではそれもなく、おそらくヤマダ電機の出来た場所あたりになるのだと思われる。

 人力車や馬が、大切な交通手段だったのですね。
 鴎外も自家用として、2頭くらいの馬を飼っていたようです。

明治30年代の常盤橋

写真集で明治30年代の常盤橋との説明がついているものを見つけた
水害のたびに橋が流されたとの記録があるようなので同じかどうかわからないが
馬に乗り登庁する際鴎外はこの橋を渡ったのだろう

現在木の橋として再現されている常盤橋は
意外と昔の雰囲気を再現しているようだ

中央奥には松が見え
海岸線が今より随分陸側にあったのがわかる

2012年9月21日金曜日

福丸

明治32年7月9日  ・・・汽車に上りて直方に至る。人車を倩ひて福丸に至らんと・・・

 福丸とは若宮のことと思われる。直方駅から福丸までは10Km以上の道のりと思われる。鴎外は人力車を雇って行こうとするが、なかなか乗せてくれる車夫がいなかったようだ。何とか乗せてもらったが、その車夫からも2~3Km行ったところで降ろされてしまう。結局鴎外はそこから歩いて福丸までいったようだ。

 当時の北九州は、石炭で儲けた金持ちがおり、車夫に対しても定額以上の駄賃を払っていたとのこと。車夫にとっては、決まった料金しか払わぬ鴎外などの役人は有り難くない客だった。金が物を言うのである。

 この経験から鴎外は、福岡日日新聞(現西日本新聞)に「我をして九州の富人たらしめば」という一文を寄稿している。金があるならその使い方をちょっと人の世に役立つ方向に使えという内容のようで、北九州の地に文化の種を播いたとされるものの一つ。まあ、成金に対して一言いわせてもらうよ、といったところか。


http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/97.html

2012年9月19日水曜日

偕行社

明治32年12月12日…井上中将以下の将校予をしてクラウゼヴィッツの戦論を偕行社にて講ぜしむ。…   (小倉日記)

 偕行社とは、帝国陸軍が組織されて間もない1877年(明治10年)に、陸軍将校の集会所のようなものとして東京に設立されたもの。以後各地の師団司令部所在地に設立され、小倉の地にも存在していた。その場所は、師団司令部から近く、今のリバーウォークあたりに在ったようだ。



 また、北方の練兵場近く、今の北九州大学のある場所の一角にも偕行社があったそうだが、鴎外の時代に存在したかどうかはわからない。

 鴎外は、明治32年12月12日を皮切りに、定期的に小倉の偕行社で戦論の講義を行ったようだ。

 小倉偕行社の建物は現存しないが、他の地域に残る偕行社の写真を見ると、白塗りで洋風の洒落た建物だったと想像できる。

2012年9月17日月曜日

小倉市

 町村制が1889年に施行された際に、小倉城下の企救郡の中の25町が小倉町としてまとめられた。そして鴎外小倉赴任の翌年、1900年に市制施行により小倉市となっている。鴎外赴任当時の小倉は、新たに師団が置かれ軍人の往来が増えたとは言え、人口が2万人を僅かに超える程度であったとされ、寒村であったと思われる

 鴎外の小倉異動を、日露戦争に向け重要な小倉の軍医部長としたのは栄転とみる考えもあるようだが、当たり前に考えるとやはり左遷人事と感じる。八幡製鐵所の作られた八幡村などは、人口8000人程度であったようだ。

 現在の北九州市は1963年、小倉市、門司市、戸畑市、若松市、八幡市の5市が合併して誕生した。小倉市は小倉区となり、1974年には、小倉北区と小倉南区に分けられた。北方に存在した衛戍病院の流れをくむ小倉医療センターは、小倉南区に存在する。

2012年9月13日木曜日

Erwin von Bälz

明治32年7月28日
…午後六時ベルツ氏を停車場に迎えて、常盤橋東の銭屋に投宿せしむ。…
        (小倉日記)

 ベルツ氏というのは、ドイツ人医師である。日本にドイツ医学を導入するために東大医学部に招聘され、教授として教鞭をとっている。森林太郎もその教えを受けている。東大医学部の教授が、なぜわざわざ小倉に立ち寄ったのかは小倉日記には記載されていないようだが、鷗外との関係があったからだと思われる。

 当時の日本、特に軍隊においては脚気が大きな問題であったが、ヨーロッパなどではほとんど見かけることのなかった病だったようである。だから、ドイツ医学から脚気の原因を学ぼうとしても無駄な事だった。ベルツを含む外国人医師は、その原因を細菌などに求め、東大医学部としてもその説を採用していた。そして当然鴎外もその考えを踏襲していたわけで、それが鴎外の脚気問題となるわけである。

 江戸末期から明治にかけて、遠田澄庵という漢方医が、脚気の原因を食事に求めていた。ビタミンなどという概念のない時代においてそれは慧眼だった。しかし明治政府の方針は漢方医学を捨て去り、西洋医学を絶対とするものであったことも影響し、遠田の考えが明治の時代に広がることはなかった。

 ベルツが「今の日本に必要なことは、日本文化のすべての貴重な面を検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくり慎重に適応させていくことだ。」という旨のことを語っている。これは脚気騒動を見返すと、実に皮肉なことである。

2012年9月12日水曜日

鴎外旧居(小倉北区鍛冶町)


鴎外記念文学碑より
  鴎外が小倉に赴任して最初に住んだのは鍛冶町。「鶏」という小説にそのことが出てくる。小倉日記を読むと、小倉到着後、この家に移り住んだのは5日目。それまでは小説での描写と同様、雨模様だったようだ。

 鍛冶町の旧居は「森鴎外旧居」として保存整備されており、歓楽街の片隅に、今も静かに佇んでいる。無料で見学が可能で、落ち着いた時を過ごすことができる。

http://www.kitakyushu-city.com/kitaku/ougaikyukyo.html

2012年9月7日金曜日

鉄の街

 露国との戦争を視野に、日清戦争の保証金を使って完成した官営八幡製鐵所。その開業が1901年であることは日本史で習います。その後新日鉄となりますが、鉄の街と呼ばれた北九州の礎が誕生したわけです。

 明治34年11月17日。製鐵所作業開始式に臨む。

 どうも実際の開始式は11月18日に開催されており、小倉日記の日付とは一日ずれているようですが、森鴎外も、この歴史的スタートに立ち会っていたのですね。
 ただ、これ以後の、日露戦争、第一次、二次世界大戦という歴史の中で、鉄の街としてでだけでなく、軍都としても北九州は育っていったわけです。二発目の原子爆弾の当初の目標が長崎ではなく、北九州であったというのは有名ですが、やはり標的になるくらいの軍都と認識されていたのでしょう。

2012年9月6日木曜日

遣清野戦病院

 小倉日記の中には、(遣清)野戦病院という言葉が数度出てくる。時代は日清戦争後5年くらい経った頃なので、その際の野戦病院を指しているのだろう。しかし、野戦病院のイメージは、前線近くにあるような感じがするのだが、小倉の地は清国から近いので当時野戦病院があったのだろうか。

 記載からは北方あたりか香春口周辺に存在した病院と思われるが、当時の地図がなければはっきりしそうにない。衛戍病院以外に、軍に関係のある病院が他にもあったということなのだろうか。

2012年9月5日水曜日

鷗外橋


 鴎外が最初に住んだ鍛冶町の家から、まっすぐ小倉城の方へ歩いていくと、紫川に鴎外橋と書かれた橋がある。写真の中央の林の向こうに、僅かに小倉城が見えるが、鷗外はそこのすぐそばに登庁していた。

 但し鴎外が実際に登庁の際にわたっていた橋は、この橋より下流にある常盤橋である。

 この鴎外橋は北九州が橋整備事業を行った際に、鷗外を記念して新たに作ったものである。

 なお文章中に、鷗外と鴎外を使用するが、鷗外だけを使用すると文字化けする場合もあると思い、わざと両方を混ぜて使用します。

2012年9月2日日曜日

初日は?



 小倉城跡にあった小倉衛戍病院が、小倉中心地から南に下った、北方に移転したのは、鷗外赴任の数ヶ月前。その後の陸軍病院時代にはかなり広大な地域が病院として利用されていたようなので、小倉医療センターの現在地と完全に重なるかどうかはわからない。しかし、北方に移転した衛戍病院鷗外が始めて訪れたのがいつなのか、少し興味がある。

 6月30日 「始て小倉衛戍病院分院に至る」

これは、小倉城跡に存在した分院の方を訪れたものと思われる。

 7月14日 「始て北方に至る。歩兵第47連隊及工兵営を看る」 衛戍病院にかんする記載はなく、寄ったかどうかわからない。

 7月15日 「又北方に至る。野戦砲兵及騎兵營を看る」 やはり病院に関する記載はない。

 8月2日 「北方に至る。第12大隊營及小倉衛戍病院を看る。」 ここに初めて小倉衛戍病院の文字が見える。



 小倉日記を見る限りは、上記8月2日が小倉衛戍病院初日と思われるのだが、本当にそれ以前には訪れていないのかどうか確信が持てない。小倉衛戍病院日誌のようなものが現存していれば確認が可能かもしれないが、日誌があるかないかもわからない。