2012年9月21日金曜日

福丸

明治32年7月9日  ・・・汽車に上りて直方に至る。人車を倩ひて福丸に至らんと・・・

 福丸とは若宮のことと思われる。直方駅から福丸までは10Km以上の道のりと思われる。鴎外は人力車を雇って行こうとするが、なかなか乗せてくれる車夫がいなかったようだ。何とか乗せてもらったが、その車夫からも2~3Km行ったところで降ろされてしまう。結局鴎外はそこから歩いて福丸までいったようだ。

 当時の北九州は、石炭で儲けた金持ちがおり、車夫に対しても定額以上の駄賃を払っていたとのこと。車夫にとっては、決まった料金しか払わぬ鴎外などの役人は有り難くない客だった。金が物を言うのである。

 この経験から鴎外は、福岡日日新聞(現西日本新聞)に「我をして九州の富人たらしめば」という一文を寄稿している。金があるならその使い方をちょっと人の世に役立つ方向に使えという内容のようで、北九州の地に文化の種を播いたとされるものの一つ。まあ、成金に対して一言いわせてもらうよ、といったところか。


http://www6.atwiki.jp/amizako/pages/97.html

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