2012年9月13日木曜日

Erwin von Bälz

明治32年7月28日
…午後六時ベルツ氏を停車場に迎えて、常盤橋東の銭屋に投宿せしむ。…
        (小倉日記)

 ベルツ氏というのは、ドイツ人医師である。日本にドイツ医学を導入するために東大医学部に招聘され、教授として教鞭をとっている。森林太郎もその教えを受けている。東大医学部の教授が、なぜわざわざ小倉に立ち寄ったのかは小倉日記には記載されていないようだが、鷗外との関係があったからだと思われる。

 当時の日本、特に軍隊においては脚気が大きな問題であったが、ヨーロッパなどではほとんど見かけることのなかった病だったようである。だから、ドイツ医学から脚気の原因を学ぼうとしても無駄な事だった。ベルツを含む外国人医師は、その原因を細菌などに求め、東大医学部としてもその説を採用していた。そして当然鴎外もその考えを踏襲していたわけで、それが鴎外の脚気問題となるわけである。

 江戸末期から明治にかけて、遠田澄庵という漢方医が、脚気の原因を食事に求めていた。ビタミンなどという概念のない時代においてそれは慧眼だった。しかし明治政府の方針は漢方医学を捨て去り、西洋医学を絶対とするものであったことも影響し、遠田の考えが明治の時代に広がることはなかった。

 ベルツが「今の日本に必要なことは、日本文化のすべての貴重な面を検討し、これを現在と将来の要求に、ことさらゆっくり慎重に適応させていくことだ。」という旨のことを語っている。これは脚気騒動を見返すと、実に皮肉なことである。

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