2012年10月31日水曜日

矢頭良一

「明治34年2月22日 雪。当国築上郡岩屋村の人矢頭良一といふもの来訪す(小倉日記)」

写真は北九州市小倉北区にある鍛冶町の鴎外居住地趾にかけられている、鴎外の書いた掛け軸の複製です。最初に見たとき、なぜこのような掛け軸を書いたのかわかりませんでしたが、これは矢頭良一が夭折した際に、鴎外が遺族に送ったものとのことです。

矢頭了一は、鳥の飛翔原理に興味を持ち、豊津中学校(後の県立豊津高校、現県立育徳館高校)を16歳の時に退学し大阪へその勉強をしに行ったそうです。帰郷後、研究を重ね完成させた自動算盤機と飛行論文を携え、上記22日に鷗外を訪ねたようです。自分の研究内容や、飛行機の必要性などを、きっと熱く語ったことでしょう。また、このようなものを持ってわざわざ訪ねようと思わせる実力を鴎外は持っていたということでしょう。

実際、鴎外の紹介で矢頭了一は東京に出て、自動算盤機(日本初とされている模様)を商用に開発し、その販売によって得た資金を下に飛行機開発研究を行っていたそうです。しかし、その無理がたたり31歳で夭折。そこまで聞くと、写真の掛け軸の意味がわかってきますね。

なお、豊津中学の元は、小笠原藩の開いた藩校である思永斎であり、同じ福岡県立高校の小倉高校と源流は同じということになる。ちなみに、シンガーソングライターの永井龍雲(http://www.youtube.com/watch?v=XCfQUZ57dKM)は豊津高校出身です。鴎外とは関係ないか…




参考

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%A2%E9%A0%AD%E8%89%AF%E4%B8%80

2012年10月29日月曜日

鍛冶町の居住跡

  清張の「或る小倉日記伝」の主人公のモデルとなった田上耕作氏が、鴎外の居住趾を探し当てたとされている。写真は、それを示す碑を建てたのを記念した写真とのこと。このことは当時話題となり、新聞にも掲載されたらしい。
その後、資料や人の話などを総合して、旧居の姿を可能な限り再現されたのが、現在のもの。
玄関前の庭には、鴎外の胸像が据えられ、観覧者を迎えてくれる。

2012年10月28日日曜日

心頭語


 明治26年に創刊された、二六新聞という日刊紙があった。創刊後2年ほどで一旦廃刊となり、明治32年に再創刊されている。鴎外はちょうど小倉赴任中の明治33年から34年にかけて、「心頭語」という一文を連載していた。その頃この新聞は日本の日刊紙として最高部数を発行していたとのこと。

 心頭語は、ドイツ人クニッゲ作の「交際法」を鴎外が抄訳しつつ自分の考えも交えたというもので、千八という名前で投稿していたため、鴎外の仕事とはあまり知られてなかったとのこと。

 どれくらいの頻度で寄稿していたのかはわからないが、軍務の合間に定期的に一文を成すということは、普通の人間ならかなり負担になると思う。しかし、鴎外にとっては、書く事が負担とはならなかったのでしょう。

2012年10月27日土曜日

葉巻

 森林太郎は葉巻が好きだったようで、小説の中にも時々葉巻に関するくだりがある。小倉時代を表現したと言われる「鶏」の中にも、【…石田が偶に呑む葉巻を毛布にくるんで置くのは、火薬の保存法を応用しているのである。…】との表現がある。石田というのはモデルが林太郎自身とされているので、鴎外も毛布にくるんで葉巻を保存していたのかもしれない。

 小倉から母親に宛てた手紙の中では、【…晩食し直ちに葉巻一本咥えて散歩に出て申し候一本がなくなるまで小倉の街を縦横無碍に歩めば…】と書いており、食後の一時間ほど小倉の街を葉巻を加えながら逍遥していた姿が見えてくる。

 食後の緩やかな散歩は、体に良いとされており、鴎外も【至極体によろしく候】と書いているが、葉巻を呑みながらでは散歩の効果は相殺されたかもしれませんね。

2012年10月26日金曜日

葫蘆

明治33年10月から翌34年7月までの間、鷗外は犬を飼っている。門司の人から買い受けたようだ。長毛で白黒の小犬のようである。

「ころと呼べば即ち来る。更めて葫蘆と名づく (小倉日記)」

葫蘆というのは夕顔や瓢箪を意味するようだ。なぜそのような名前をつけたのかはわからないが、ころという響きにこの漢字をあてただけのような気がする。犬を表すのに夕顔ではピンとこないし、瓢箪とも違うような気がする

ひょっとすると、瓢箪の川流れ、という表現が合うような、ふらふらうろつきまわり、うきうきと落ち着きのない犬だったのかもしれませんね。

それにしても独身の鷗外が、どのような顔をして犬と接していたのでしょう。一人身には小犬慰めとなったのでしょうか。

2012年10月24日水曜日

京町住居跡碑


 小倉駅南口側にあるエスカレーターを降りたところにある、京町住居跡碑である。碑文にはこの碑より南25mの場所に住居があったと記されている。


 しかし、この碑の足元に埋め込まれば説明にあるように、現在の碑がある場所が実際に旧居があった場所とのことです。当初小倉駅ロータリーに設置されたものが、小倉駅前の整備に伴い移設された場所が、ちょうど旧居あとだったようです。納まるべきところにおさまったということですね。

 これは、昭和33年ころの小倉駅南側の写真です。まだロータリーの整備はされておらず、当然碑もありません。時代は流れます。

2012年10月23日火曜日

小倉城


 昭和34年に概観復興された、小倉城の天守閣。1837年に焼失して以来の復興となった。

 鴎外が勤務した陸軍軍司令部は、リバーウォーク側からみると、この天守閣の向こう側になる。もちろん、鴎外のころにはこのような天守閣を望むことはできない。しかし、城壁やお濠などは存在していたと思われる。

 市民に憩いの場を提供している、城内周辺は、気持ちの良い空間が広がる。風景が異なっていたとは言え、鴎外もこの界隈を逍遥したのであろう。なお、写真の方向を向いて経てば、左斜め後ろ方向に、偕行社が有ったことになる。

2012年10月20日土曜日

逹見旅館

鴎外が小倉に到着して最初に投宿したのが逹見旅館です。その後玉水旅館となり近年までは残っていたようですが、4年ほど前に和服のお店がそこを借り受け営業をしています。

 写真がそのお店です。建物自体は玉水旅館のときのまま使用しているそうです。たまたま外で一服されていたお店の方にお聞きすると、この建物の持ち主の方は写真左奥に今もお住まいとのことです。お話をお聞きしたいような気もいたしましたが、いきなりわけのわからぬ人間が押しかけるのも失礼と考え、思いとどまりました。

 それにしても、やっと逹見旅館の場所がはっきりしました。この右手に行くと、小倉から長崎へ向かう長崎街道起点があり、そこに鴎外が登庁時に渡っていたであろう常盤橋がかかっています。

乃木希典居住宅の趾

室町あたりを散策した後、リバーウォークあたりを自転車で行き過ぎようとしたとき、偶然見つけました。リバーウォークと小倉城址のお濠との間にありました。

 歩兵14連隊長心得として明治8年12月から10年2月まで、乃木希典が居住していた場所。

 森林太郎と乃木希典の関係は調べていませんが、お互い心通ずるところがあったようです。ドイツ留学の時期も重なっていたようで、そのあたりからの繋がりかもしれませんし、森が津和野、乃木が長府出身というふうに、出身地がかなり近いということもあるかもしれません。

 森林太郎が小倉に赴任するために東京を発つとき、見送りはほとんどなかったとのことですが、乃木希典は見送ったと記録されています。

 また、乃木希典とその妻が自刃した後5日ほどで、森鴎外が「興津弥五右衛門の遺書」という小説を書き上げ、その死を否定的に捉える意見から擁護しようとしたとされているようです。

 
参考  Wiki  http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%83%E6%9C%A8%E5%B8%8C%E5%85%B8
     北九州文学散策  http://dendenuta.exblog.jp/6792616/




2012年10月19日金曜日

歩兵第14連隊の碑

歩兵第14連隊の碑

 北九州市立中央図書館の敷地内に、歩兵第一四連帯の跡であることを示す碑が建っている。写真の後方に見えるのが図書館の建物だが、この碑に気づく人は少ないだろう。この図書館はよく利用するのだが、私も本に出ていたので初めて知り、探しに行って見つけた次第。

 この連隊は、鴎外の主たる職場である軍司令部の近くにあり、小倉日記の中でもその名が何度か出てくる。1904年にはこの連隊も日露戦争へと出兵している。

 連帯の占めていた場所は、図書館や公園となっており、恐らく近くの弓道場などもその敷地内だったのだと思われる。一時期乃木希典もこの近くに住んでいたらしいが、その場所はまだ調べていない。

2012年10月16日火曜日

京町の住居

京町の鴎外旧居
6:明治31年の市街図
6番が鴎外旧居の場所で
4番が三樹亭

 現在小倉駅前魚町側のエスカレーターの足元に、鴎外旧居の場所を示す碑がある。駅前開発などに伴い3回場所を変えたようだが、現在ある場所が、たまたま旧居のあった場所と一致しているという。鴎外お気に入りの三樹亭は、そのすぐ近くにあったのですね。

 最初に住んだ場所が、地図の10番のところ。そこに比べて、京町は当時の歓楽街のすぐ近く。職場に近づいたとも言えるが、やはり少しは賑やかな方が好きだったのですかね。

2012年10月15日月曜日

三樹亭

三樹亭の宴会場
鴎外がしばしば会食に利用した三樹亭の宴会場の写真とのこと。明治中期の小倉に存在したものとすればかなりおしゃれな場所であったようだ。ここには美人姉妹がいたとのことである。



その後、三樹亭はなくなり、カフェライオンとなったとのこと。
このカフェライオンでは松本清張が芥川賞を受賞した際の
祝賀会が行われたということ。
しかし、現在ではこのカフェも存在しない。


 これら三樹亭やカフェライオンがあったのは、京町のようなので、鴎外の2番目の住居のすぐ近くだったと思われる。三樹亭に関する資料を、私は今のところほとんど見つけることができていない。美人と言われる姉妹の写真や、提供していた料理などがわかると面白いのですが。

2012年10月13日土曜日

偕行社の変遷

初代

2代

3代

 この写真は、小倉偕行社の変遷を示している。鴎外の小倉日記には、将校への講義や訪問客との食事の際などにこの偕行社を利用したとの記事がよく出てくる。2代偕行社の落成が、明治35年1月とのことなので、鴎外が東京を戻る直前に完成したことになる。クラウゼヴィッツの戦論の講義などは、主として初代偕行社で行ったことになるだろう。

 初代の写真右下には、勝山橋の文字が見えるので、手前の広い道に見える場所は、紫川にかかる橋と思われる。わたしが見つけた明治33年の小倉市の地図では、常盤橋しか描かれていないが、その後勝山橋もかけられたのだろうか。だとしたら、鴎外はこの橋もわたっていた可能性がある。

2012年10月12日金曜日

松本清張

 松本清張の小説に、「或る『小倉日記』伝」というものがあります。これは、小倉日記が見つかる前に、小倉での森鴎外の行動を調べていた田上耕作という実在の人物をモデルにした小説です。ただ、実際の人物とはかなり違った人間として小説では描かれているそうです。

 清張は1909年12月21日に小倉で生まれた、と戸籍上はなっています。しかし実際は、広島で同年の2月12日に生まれ、その後小倉に家族が移り住み、小倉で書類を提出したのではないかとも言われています。

 清張がどのような経緯で田上耕作、さらには森鷗外に興味を持ったのかはわかりませんが、鴎外が亡くなったのが1922年ですから、清張が幼少だったとは言え、二人は同時代を生きていたのですね。

 なお、北九州市小倉北区には、松本清張記念館があります。下記がそこの公式HPです。

         ⇒   http://www.kid.ne.jp/seicho/html/index.html

清書された小倉日記

 私たちが小倉日記として読むものは、鴎外自筆の日記をもとにしたものではないそうだ。実は小倉を去った後に、小倉での日記を清書しなおしてもらっているとのこと。清書しなおすということは、公開を前提としたものということであろうから、その過程で加筆や削除が行われたと考えるのが普通だろう。

 公開するとなると、清書の時点でいろいろな思惑が働くはず。日記を書くときにはそのまま書いたようなことでも、あとになって都合が悪いと考えれば、削除したような不都合な真実もあったはず。

 この清書された小倉日記は、一時期その所在がわからなくなっており、小倉での鴎外の暮らしをしる手がかりがほとんど無い状態だった。しかし、昭和26年になって親戚宅から見つかり、当時の行動を垣間見ることができるようになった。

 ところで、自筆の小倉日記は存在しないのでしょうか。あるならその内容を見てみたいものですね。

2012年10月11日木曜日

軍馬

 小倉赴任時の林太郎は、帝国陸軍の少将相当にはなっていたと思われ、乗馬本文者と言って馬に乗ることを義務付けられていたようである。小倉赴任の際には、東京から2頭の馬を連れてきていた。吉野と松島の2頭である。その後松島は部下に与え替りに北斗という名前の馬を買ったようだ。

 なにせ生き物だから体調の良し悪しもあるであろうから、2頭の馬を飼っておく必要があるのだろう。普段の通勤(司令部への登庁)や北方の視察などにも、馬を使用していたとのこと。

 当時の小倉の街を、馬で進みゆく姿というのは、目立ったことでしょうね。

2012年10月10日水曜日

脚気減少は果して麦を以て米に代へたるに因する乎

 鴎外、森林太郎について概観する際、脚気問題は避けては通れないだろう。

 これまで私は、陸軍と海軍、ドイツ医学とイギリス医学、西洋医学と漢方医学という対比の中で、あるいは、東大医学部ひいては当時の医学会の趨勢という観点から、兵士に提供する主食をあくまで白米で通すという林太郎の態度もやむ無しと考えていた。しかしいくつかの本を読むうちに、日清戦争や台湾赴任の際に多数認められた脚気患者、特に脚気による死亡数から見て、森林太郎は何か手段を講じるべき立場にあったはずだと感じるようになった。

 森林太郎が小倉に赴任した後、小池局長が陸軍大臣に対して上申した内容は、白米主義が脚気発症の多いなる要因であることを述べたものである。その内容は実に簡潔明瞭であり、拘りなく聞けば、兵食を改める方向へ進むのが普通だろうが、上記タイトルの一文を発表している。小倉という、中央から離れた場所にいて少しは客観的に見ることができそうなものだが、離れているがゆえに中央とのつながりを意識したのか、あくまで主食に麦を混ぜることに反対する文である。

 林太郎は明らかに方向転換するチャンスを逃した。そして、数年後第一師団軍医部長として赴いた日露戦争において、戦死者以上の脚気死亡者を出してしまったのである。

 鴎外のこの態度は、現代の薬害にも通ずるものがある官僚の態度とも言える。これは鴎外の人生において、大いなる汚点と思われるが、本人はその点につき語ることはなかったようだ。多数の兵士が戦争そのものではなく、脚気で死亡した事実に対する大いなる責任は林太郎にもあるというのは否定できない事実だろう。同じ日露戦争で、白米とともに麦も兵食として提供した海軍やいくつかの陸軍の部隊において脚気死亡がほとんどなかったことを見ても、実に残念なことである。

2012年10月9日火曜日

役所

 独身という小説の中で、鴎外をモデルとしたとされる主人が、「それは有難う。明日役所から帰る時にでも廻って見ましょう。・・・」と語っている。フィクションの要素も多分にあるのだろうが、鴎外は自身の仕事を役所勤めであると認識していたのだろうと思う。

 森林太郎軍医部長の勤務は朝の9時から午後3時まで。医師として働いているわけでもないので急患もない。また教会の神父からフランス語を習う日には、一旦帰宅後服を着替え、歩いてきちっと遅刻せずにやって来たとのことだから、定刻に帰宅できていたはずである。

 役所勤めでも、木っ端役人はいろいろと仕事が廻ってくるだろう。悠々と帰宅できるところ、やはり地方赴任時の高級官僚という立場になる。

 鴎外が学生当時の東大医学部は、東京医学校の体制である甲乙二部制をとっていたようで、鴎外はその甲(本科生)に進んでいる。本科生は卒業後は主としてドイツへの留学を経験した後に、官途あるいは軍医として採用されることになっていたそうで、母親などの希望も強かったかもしれないが、もともと鴎外は官僚志向であったと考えられる。

2012年10月7日日曜日

広寿山 福聚寺


 鴎外は小倉赴任中に、志げさんと再婚している。
その志げを伴って、小倉の南方にある足立山の麓に存在する
広寿山福寿寺を訪れている。

 この寺は黄檗宗の名刹で、小笠原藩の初代藩主である小笠原忠真(ただざね)が
同家の菩提寺として創建したとされる。

 寺の入口が主要道路からではわからないので気が付きにくいが
かなりの広がりを持つ立派な寺院である。そういえば、近くを走る
バス停の名前に山門町というのがあるが、この寺の山門にあたる
ことから付いているのかもしれない。