2012年10月28日日曜日

心頭語


 明治26年に創刊された、二六新聞という日刊紙があった。創刊後2年ほどで一旦廃刊となり、明治32年に再創刊されている。鴎外はちょうど小倉赴任中の明治33年から34年にかけて、「心頭語」という一文を連載していた。その頃この新聞は日本の日刊紙として最高部数を発行していたとのこと。

 心頭語は、ドイツ人クニッゲ作の「交際法」を鴎外が抄訳しつつ自分の考えも交えたというもので、千八という名前で投稿していたため、鴎外の仕事とはあまり知られてなかったとのこと。

 どれくらいの頻度で寄稿していたのかはわからないが、軍務の合間に定期的に一文を成すということは、普通の人間ならかなり負担になると思う。しかし、鴎外にとっては、書く事が負担とはならなかったのでしょう。

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