2012年11月28日水曜日

即興詩人

 鴎外が日本語訳した「即興詩人」の初版の前書きに「此譯は明治二十五年九月十日稿を起し、三十四年一月十五日完成す。」と記されている。8年4ヶ月の歳月をかけている。一般のイメージでは鴎外は文豪だが、伝記の類を読んでみると、鴎外はやはり官僚(軍医)であることがプライオリティの第一であったと思われる。その官僚としての様々な仕事の合間に訳出したとなると、その忍耐強さに驚く。翻訳開始後には日清戦争も起こったわけであり、鴎外にも多くの為すべき職務が山のようにあったはずである。

 訳出し終わったのは、小倉で2番目に居した京町の自宅に引っ越して間もなくである。小倉に赴任してからほぼ一年半が経過している。小倉赴任前までに、即興詩人のどの部分まで訳出し終わっていたのかはわからないが、東京にいたときよりは時間が取れたであろう小倉赴任がなければ、ひょっとしたら即興詩人の翻訳終了までにはまだ月日がかかったかもしれないし、翻訳が終了しなかった可能性もあったかもしれない。

 鴎外訳による即興詩人が公になった後、その本を片手にヨーロッパを旅した日本人が数多くあったことを聞くとき、鴎外の小倉着任が与えた一つの大いなる影響を見ることができる。

下痢

 門司新報という新聞の明治32年7月14日の記事では、軍医部長の巡視日程として、7月17日に小倉衛戍病院と輜重兵十二大隊をまわる予定と記載されている。ところが小倉日記によると、7月13日ころから下痢が始まり、次第に症状が増悪し、15日の予定の途中からは帰宅して20日まで休んでいる。そのため、当初の予定は実行されなかった。

 当初7月17日の予定だったものは、8月2日に実行され、小倉衛戍病院の視察を行ったことになる。
 
 下痢の原因については記載はないが、転勤に伴う疲れ、食べ物に当たった、ウィルス性の腸炎などが考えられるだろうか。鴎外は、衛生上の観点からも加熱されていないものは基本的に食べなかったと伝えられているようですが、それでも下痢症になるときはなりますね。独り身で家でうんうん唸っているというのは心細いものだろうが、その間の日記の記載はない。

2012年11月27日火曜日

都督部

 都督部というのは、作戦計画、訓練、教育を担当した陸軍の組織で、明治29年に設立された。東部、中部、西部の三つの都督部が存在し、東部は東京、中部は大阪、そして西部都督部が置かれたのが小倉である。天皇に直隷した組織とされ、都督部所在地にある師団は他の師団に比べて上に見られていたようである。

 第十二師団は、そのような位置づけとなり、北清事変が起こり、露西亜との戦いが確実視されていた時代にあっては、軍組織上はかなり重要な師団であったと思われる。ならばその師団の軍医部長としての赴任というのもかなり重要な意味合いがあったと推察される。

 鴎外の小倉赴任が左遷とする場合、日本の西の果てであるとか、第十二師団であるとかから判断している場合が多いようである。しかし実際、この赴任は軍組織としての異動であり、左遷か否かは軍組織としてどうであったかではかられるべきであろう。そのような視点から見るとどうかは、軍組織についての知識がない私には判断できない。ただ、松本清張は、当時の第一(東京)、第四(大阪)、第十二(小倉)師団の軍医部長を見てみると、序列通りの配置であろうと述べている。

2012年11月26日月曜日

赤間関

 現在の下関港あたりが赤間関と呼ばれていたようだ。1889年に日本で最初に市制が施行された市の一つとして、赤間関市が誕生したとのことだ。そして1902年に現在の名前である下関市となっている。山口県の瀬戸内にある上関、中の関、に対しての下関と思われる。

 赤間関は赤馬関とも表記されていた関係で、馬関(ばかん)とも呼ばれていた。鴎外がいた頃には、この赤間関には遊郭があったようだ。鴎外の上司であり軍医総監でもあった石黒忠悳が鴎外に宛てた書簡で、「赤間関にちょくちょく遊びに行っているのではなかろうな。」という意味合いのことを述べている。ドイツ留学から帰国した際の一事件も含め、石黒氏からみると、鴎外はそちらのほうでちょいと心配だったのだろうか。

 鴎外はその書簡に対し、「軍務に精進しており、仕事で赤間関に行くことがあっても朝行って、夕方には帰ってきている。先日旭町(小倉の遊郭街)であった送別会には参加すらしませんでした。」という旨を返事している。なにか微笑ましい。ただ、ここまで一生懸命潔癖を語るのは、やはりそれまでいろいろ言われてきたからであろうと推測できる。

2012年11月25日日曜日

玉水俊虎

明治33年11月23日「…曹洞の僧玉水俊虎 将に小倉安国寺を再立せんとし…」

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 このあと、ずっと付き合いの続く玉水俊虎が訪れたのがこの日である。小倉で廃寺となっていた安国寺の再興を目指していた俊虎が、寄付を依頼する文章を鴎外に書いてくれるようお願いに来たわけである。

 やはり鴎外はかなりの有名人なのでしょうね。ふつう、厚生官僚のお偉方がやってきたからといって、一般人には知れ渡らないけれど、鴎外は特別なのでしょうね。

 これ以降、鴎外は俊虎にドイツ語を教え、俊虎は鴎外に唯識論の講義をするというふうに、お互いに高め合う関係となっている。鴎外の小説「独身」と「二人の友」の中でそれぞれ「安国寺さん」、「寧国寺さん」という名前で描かれている。純朴な人柄として描かれており、実際もそうであったらしい。

明治33年12月4日 「俊虎予が為に唯識論を講ずること、此日より始まる。」

 また明治34年の1月1日には、福岡日日新聞に「小倉安国寺の記」を、門司新報には「小倉安国寺古家冢町の記」を寄稿しているとのことである。これなども、当然俊虎との交友を得たが故に書いたものであろう。

2012年11月24日土曜日

澄川徳

明治33年10月21日 「…書を馳せて澄川を招く。」
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 小倉市立病院長の澄川徳を指している。東大医学部卒である。

 独身という小説の中の富田という医師のモデルとされている。小説の中では、酒好きの赤ら顔表現され、洋行前の資金調達のための院長職と描かれているが、実際はどうだったのだろうか。

 小倉市立病院は、明治32年4月の市制施行に伴い、郡立病院から移行している。

2012年11月23日金曜日

小倉常磐座

明治33年7月29日 「常磐座に演説す。… 聴衆千を踰ゆ」
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 明治31年、小倉の船頭町という所に開業した劇場とのこと。当時千人を超える聴衆が入る劇場があるというのも驚きだが、それだけの人を集める鴎外というのもすごいですね。

 しかも内容はフリードリッヒ・パウルゼンの倫理学説について語るという類のものだから難易度が高そう。鴎外が高度な内容をどれくらいわかりやすく語ることができたのかはわかりませんが、肉声を聞いてみたいものですね。

 ちなみにこの常磐座は、小倉を舞台とした映画無法松の一生のなかでも、大騒動の場面で出てくるそうです。

※パウルゼン…ドイツ人。ベルリン大学教授。哲学者、教育学者。倫理学体系(1889)。

2012年11月22日木曜日

豊洲鉄道

明治33年6月1日 「午前九時小倉を発して大分に向ふ。…始て豊洲線路に由る。(小倉日記)」

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 徴兵検査に赴くための大分への出張だったようだ。

 北部九州は産地から石炭を運び出すためということもあり、いくつもの鉄道が存在していた。小倉日記の中に鉄道名の記載がいくつかある。少し調べようとしても、会社同士の合併や廃線などがあり、その歴史をたどるだけでも大層なことである。

 この豊洲(ほうしゅう)鉄道も、鴎外が利用した翌年には九州鉄道に吸収合併された(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B7%9E%E9%89%84%E9%81%93)とのことである。

 それにしても、第12師団軍医部長というのは、広域に渡る職務があったわけで、一般の感覚からすれば雲の上存在。それを左遷と感じる人の心というのは、つくづく難しいものだ。誰しも、何かと比較して、喜んだり、がっかりしたりするもの。そこをスッと吹っ切れれば、どうということもないのであろうが。

 鴎外が、軍の職務に精励したのも、わだかまりを吹っ切り、己が心を平静に保つためだったのかもしれないとふと感ずる。

2012年11月21日水曜日

志げ

 鴎外は、明治35年1月4日に志げとの婚礼をあげている。大審院判事である荒木博臣の長女である。この妻の名は、志げ、志げ子、シゲ、茂子などといろいろな記載を見かける。ただ、小倉日記では
 1月4日 茂子を娶る。

と書いてあるので、茂子が正式な名前なのだろうか。それにしても、記載がこの一行です。

 鴎外40歳、志げ22(23?)歳の新郎新婦である。1月8日に小倉に戻り、3月26日に小倉を発つまでの間、京町の自宅で新婚生活を送ったことになる。自宅から、小倉城内にあった司令部まで、この新妻はお弁当を届けていたとの話もあるようで、初々しくほほえましいことである。

 この短い期間に、鴎外は志げを伴ない近隣の旧跡などを歩いているので、鴎外自身も二人の生活を嬉しく思い、大切にしていたのであろう。

2012年11月20日火曜日

上りの汽車はなほ妬かりき

 鴎外が日露戦争に従軍した際に詠んだとされる詩歌が、うた日記として発刊されたのは1907年である。その詩歌の中に
 「夕風に袂すずしき常盤橋上りの汽車はなほ妬かりき」 
の一首があるという。

 常盤橋は、小倉にいる鴎外が、登庁の際や散歩の際など頻繁に渡った橋を指しているのだろう。現在もそうだが、当時の地図を見ても、常盤橋の少し海側を鉄道が走っている。夕風と書いているところから、日課としていた食後の散歩のときの風景や想いを思い出して歌にしたのだろう。

 常盤橋から見える上り列車に乗れば、東京へ戻れる。その上り列車をみて、妬ましさを感じていたなぁ。その後第一師団軍医部長となり東京に戻れることになったが、やはりあの時はつらかったなぁ。東京へ戻る知人を見送るのもなんとなく心に引っかかるものがあったが、列車を見てもうらやましく感じていたなぁ、といったところだろうか。

 小倉日記には、左遷と自身が思っていることを示す部分はほとんどないと思うが、後になり振り返って詩歌として感情を吐露する際には、素直な想いを表現できたのでしょうか。

2012年11月19日月曜日

山陽鉄道の寝台車

明治33年5月6日 …徳山より始めて寝台車に乗る… (小倉日記)

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 日本初の寝台車は、山陽鉄道に明治33年4月に導入されたものだそうだ。鴎外は、その導入直後にこの寝台車に乗ったことになる。大阪と三田尻の間に導入され、一等車の一両を半分に分け、食堂車と寝台車として利用されたということです。

 定員は16名、料金は2円だったといいます。当時の教員の初任給が8円くらいとのことですが、今の値段ならいくらになるのでしょう。やはり鴎外は超エリートだったのですね。

2012年11月18日日曜日

千壽製紙有限会社

明治32年9月9日 上流に千壽製紙会社立ちて、河水汚濁し、生洲によろしからざる…(小倉日記)

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 昭和40年頃、小倉北区を流れる紫川の水は濁り、悪臭を放っていた。十條製紙からの廃液による汚濁が原因であったようだ。鴎外の頃既に、千壽製紙会社として存在していたようで、鴎外が食べた鰻があまり美味しくなかった理由の一つとして挙げられている。

 その後明治42年には、王子製紙の小倉工場として改組され、さらに十條製紙に継承されたそうである。

 現在では、その工場もなく、紫川も水が綺麗になり、異臭などもなく、魚が川に戻ってきている。

菅原神社

明治32年7月31日 夜天満宮に詣でて祭りを看る (小倉日記)

 ここに出ている天満宮とは、小倉北区古船場にある菅原神社のことらしい。私はこの神社のことは全く知らなかったが、ご祭神は菅原道真とのことである。鍛冶町の鴎外宅からなら10分とかからない距離にある。

 大宰府に流される途中に立ち寄ったとされる場所に、道真が亡くなった翌年に建立されたとされている。明治13年に、小倉近辺の神社を合祀したとのことだから、鴎外が訪れた時は、小倉の氏神さまを祀った場所、ということになるだろうか。

2012年11月15日木曜日

充実した日々

 休みなき精進の生涯であったと語られるように、小倉での鴎外の日々も決して安逸に流れるなどというものではなかったと思われる。文筆活動という意味では雌伏のときであったかもしれないが、一人の人生とすれば、日々を確実に積み重ねていたと感じる。

 日々の公務。小倉のみでなく、福岡、熊本その他の師団、衛戍病院の視察。 演習の参加、統括。クラウゼヴィッツ「戦論」の翻訳および将校への講義。水質に関する調査。地元の求めに応じての講演。即興詩人の訳出。東京及び地元の新聞への寄稿。会議のための上京。フランス語の勉強。唯識論の勉強。名所、旧跡、地方史の研究。再婚。

 主なところを羅列するだけでも、随分することが多い。これに日常の些事も含めると、だらだらとした時間などほとんどないのではなかろうか。充実した日々を送っていたと思われる。ちなみに、普通の軍医部長ならば、鴎外が小倉にいた2年10ヶ月をかけても、鴎外が訳出した部分の戦論の翻訳すらなしえないだろうと思う。ただただ驚くばかりである。

2012年11月14日水曜日

寄稿

 鴎外は、西日本新聞の前身である福岡日日新聞や、今はない門司新報などに寄稿をしている。その数は、講演の筆記録を掲載したものを除けば、
「我をして九州の富人たらしめば」
「鴎外漁史とは誰ぞ」
「小倉安国寺の記」
「小倉安国寺古家の記」
「和気清麻呂と足立山と」
「即非年譜」
の6編に過ぎない。

 一方、東京日日新聞や二六新報など東京の新聞へは、「隠流」や「千八」などというペンネームを使って、森林太郎であることがわかりにくくはしながらも、いくつかの連載ものなどを寄稿している。

 小倉への左遷は、文筆活動に眼を付けられたという面が全くないとは言えないわけで、鴎外としても控えていたという側面があるだろう。しかし、やはり眼は東京に向いていたというところが最も大きいような気がする。

 鴎外漁史とは誰ぞ、の中で鴎外は死んだとしながらも、いや実は死んではいないと言い続けていたということだろう。

2012年11月13日火曜日

謫せられ

 小倉時代というのは、鴎外の人生にとって幅や深みを持たせる上で、重要な日々であったろうという印象が強い。後になって眺めてみると、鴎外にとってもそうであったろうと思います。

 しかし、赴任から1年3ヶ月頃の書簡であろうと思われる母親への文面をみると、まだまだ小倉に追いやられたことに対する心の整理なんぞついてなさそうです。

 私の勝手な意訳が入りますが・・・
「小池局長は学問力量の上ではそれほど私より勝ってなどいないだろうと思われる。そんな局長の指示通りに赴任し、しろと言われることを行い、そのどれも馬鹿らしいとか無駄とか思わぬようにしている。・・・※罪によって遠方に流されているのを苦にせず負けずにやっているのは、名誉であると思えば思えないこともない。・・・」
なかなかウジウジしたためているのです。

 ここで※印のところは「謫せられ」という言葉を使っています。謫とは罪によって遠方にに流されることを意味するわけで、鴎外とすれば、故あって島流しにあったような心情だったことを端的に示していると思います。

 では罪とは何だと思っていたのでしょうか。私は医師だからどうしても脚気のことが気になります。日清戦争や台湾出兵の際は戦闘自体より脚気で命を落とした兵のほうがはるかに多かったとされています。その責任は林太郎一人のものではありませんが、何のお咎めもなかった石黒忠悳などの責任も含め詰め腹を切らされたというところではないか、というのが今のところの私の印象です。陸軍内部はもちろん、公に陸軍の白米食を批判していた海軍などに対して、責任を取らせたことを示したかったのではないでしょうか。

2012年11月12日月曜日

観潮楼

 鴎外が約30年か居したという自宅が文京区にあった。その2階から遠く品川の海を望めたことから、観潮楼と名付けたという。

 その観潮楼跡に、森鴎外記念館が出来たとのこと。生誕150周年記念事業の一つとして行われたようです。

 その文京区のHP上で、Youtubeで「知りたい!森鴎外」という番組を見ることができます。鴎外のことについてちょっと知るのに、わかりやすい番組です。興味も広がります。みなさんも覗いてみてはいかがでしょう。


http://www.city.bunkyo.lg.jp/sosiki_busyo_academy_moriougaikinen_ougaiseitan150.html

2012年11月11日日曜日

鴎外漁史

 漁史という言葉にどのような意味あいが含まれているのかわかりませんが、雅号の下につけて用いる言葉のようです。林太郎も鴎外漁史のペンネームで文章を発表したことがあるようです。

 小倉赴任後に、福岡日日新聞の求めに応じて森林太郎の名前で載せた一文の紹介に、森とは鴎外漁史のことだとの注釈がついていたそうです。再度寄稿依頼が来た折に書いたのが「鴎外漁史とは誰ぞ」という一文です。青空文庫で読むことができます  ⇒ http://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/45270_19219.html
 
 このなかで、自分は中央文壇と称される世界とは別世界にいること、学問や軍務に精進していること、自身が書いた小説は短編4編ほどしかなくそれに費やした時間は1週間程度であること、鴎外漁史という作家はすでにいないといえるが林太郎はしっかりと元気にやっているということなど、自分の立ち位置を述べている。寄稿依頼の際には文壇評を求められていたのだが、文壇を離れているので書けない旨を述べている。しかし、最後には現在新たに文士として登場しているものは末流であるなどとしっかり批評を書いている。

 論の流れは面白いが、読んで心が清々するような一文ではありません。鴎外自身の気持ちも複雑だったのでしょうね。

2012年11月10日土曜日

登志子



登志子
 鴎外の最初の妻は、海軍中将赤松則良の娘登志子である。この結婚はうまくいかず、1年ほどで離婚に至っている。原因は林太郎と登志子の不仲とするものが多いようだが本当だろうか。

 この結婚は、鴎外が動いたというより、周りが動きお膳立てした、家と家の結婚という色彩が強いように感じる。鴎外がドイツ留学から帰国直後の、エリーゼ・ヴィゲルトにまつわるごたごたを早く過去のものとしたい、との思いが森家特に母親に強かったせいもあるだろう。そのような結婚が、現在のように気が合わないくらいで解消されたりするものだろうか。

 登志子が病によりこの世を去ったのは、明治33年1月28日。鴎外は小倉で受け取った親友賀古鶴所からの封書に同封された新聞記事の切り抜きで、2月4日にそのことを知った。同日の日記には、「ああ、これは私の前妻である。長男於菟の母親である。美人とはいえないが、色白で背の高い女性でした。和漢文を読むことができ、漢籍などは白文でもすらすらと読んだものです。ちょっと理由があって1年ほどで別れました。今日は小倉の島根県人会が開かれるのだけれど、私は病気ということで参加はしませんでした。」というような一文がしたためてある。

海軍中将 赤松則良


 この文章からは、登志子のことを恨んだり憎んだりしていたとは、とても思えないのです。

 もし、この結婚がうまく行っていれば、海軍中将の義父と陸軍軍医の林太郎が会食などして打ち解けて話すようなこともあったでしょう。そして、海軍が取り入れていた麦食に関しても、陸軍が拘ることなく白米食から麦も提供するというふうになったかもしれません。そうなれば、陸軍から何万もの犠牲を出した脚気死者を激減させることができていたのではないかと夢想してしまいます。歴史に「もし」はないとはいえ。


2012年11月9日金曜日

舞子駅

 兵庫県明石の東に舞子駅がある。鴎外は、小倉へ赴任する途中6月18日の日記で、「軍医部長になるよりは、舞子駅駅長となる方がましであろう」というようなことを書いている。日記中、都落ちに対する悲嘆と取れるような記載があるのは、ここだけのようだ。

 わざわざ舞子駅などというのを出してきたのは、菅原道真が都落ちしていく際に、明石駅(駅家は厩のことらしい)駅長に対し、「一栄一落是春秋」と述べた故事を踏まえているとの説もあるようです。そういう事実があるのかもしれませんが、それなら鴎外もあっさり明石駅駅長と書けば良さそうなものだとも思います。

 たまたま舞子駅で、ここの駅長となるほうが師団軍医部長よりましだ、と思わせる心象風景が出現するような何かがあったのではないでしょうか。それが何かはわかりませんけれど。

2012年11月8日木曜日

門司ー赤間 連絡船

 鴎外が小倉にいた頃の門司駅は、現在の門司港駅のすぐ近くだったとのことである。鴎外が小倉へ赴任してくるときは、山陽鉄道は徳山までしか開業しておらず、そこからは船で門司まで来ている。明治34年5月に徳山から赤間(現在の下関)まで開通し、門司(門司港)ー赤間(下関)間の連絡船も就航している。

 明治34年12月29日 始て新連絡船を用ゐる 

 鴎外はこの時始めて、門司ー赤間間の連絡船に乗り、上京したことになる。この後も、しばらくはこの門司駅が九州の玄関口としての役割を果たしていたわけだが、関門トンネルの開業に伴い、1942年にそれまでの大里駅が門司駅となった。トンネルの出口がそれまでの門司駅よりずっと小倉よりになったためである。

 九州の玄関口としての門司港は、その役割を終えたことになる。現在はレトロ地区として再開発され、年間200万人程度の観光客が訪れると公表されている。

2012年11月7日水曜日

衛生隊演習

 通常は9時出勤、3時帰宅という公務員生活を送っていた鴎外も、演習などは随分大変だったのではないかと思います。衛生隊の演習となれば、軍医部長である鴎外が統括するものであったと推測します。
 
 演習場所も小倉から離れた場所まで衛生隊を移動して行うこともあったようです。小倉日記中には、天気は雨であることと、演習をしたということくらいしか書いてありませんが、兵隊さんは徒歩、鴎外にしても馬での移動でしょうから雨だと大変です。実際当時の地方新聞には、膝まで泥につかりながらの演習なども報じられていたようです。

 明治34年7月9日には、演習の帰りに「金邊嶺をこえて小倉に帰る」とあります。今でこそその場所はトンネルができており、小倉から南に行く際の主用道路となっていますが、当時はかなりの急登坂だったはずですから、その一行でも大変さが伝わってきます。

2012年11月6日火曜日

小倉三部作

 小倉日記は、基本的に事実の羅列であり、私などは最初から最後まで通読しようという気にはならない。ところどころ気になるところを拾うという感じにどうしてもなる。当然読んでいて引き込まれるというような読み物でもない。

 そんな愛想のない日記に幾ばくかの色を添えてくれるのが、小倉を舞台とした三つの小説、『鶏』『独身』『二人の友』である。小倉を離れ、鴎外が医務局長というトップに就任した後、一気に文章を発表し始めるのだが、その頃になって書いた小品である。

 小説であるから当然フィクションが入っているだろうが、鴎外の日常、小倉の町の雰囲気、人間模様、習慣などを垣間見ることができるように思われる。これらの小説を読んだ後に小倉日記を眺めると、そこに少し血が通うように感じられるのである。

2012年11月5日月曜日

左遷?

 鴎外が陸軍軍医監に昇進し、第十二師団軍医部長と決まったのは明治32年6月8日付けで、その辞令を受け取ったのが同月10日、小倉に向かい新橋を出発したのが16日とのことです。随分慌ただしいものですが、これが普通だったのでしょうか。

 この小倉への赴任が左遷なのかどうかは、多くの人が論じていますが、最終的には陸軍軍医総監となり、陸軍省医務局長という陸軍軍医としてのトップまで上り詰めたわけですから、そこへ至るまでの一過程ということでしょう。

 鴎外の心情としては、やはり都落ちだったと思われ、母親に当てた手紙では左遷と考えていることが語られていたとのこと。軍医としての出世というだけでなく、中央の文壇から離れ、慶応義塾での解剖学や美学の講義はできなくなりという具合ですから、心楽しまぬのも当然でしょう。ただ建前としては、人事権をもつ小池局長の心労をいたわったり、望外の栄転などと語ったりしていたようです。

 一方で、当時の小倉はロシアの南下政策に対抗するための重要な兵站地(前線に必要な物資を送り出す基地)としての発展が重視されていた場所です。そこでの軍医部長が、衛戍地としての精度を上げるために大いなる責任を課せられていたのも事実でしょう。その点では、やはり能力を認められ期待されての栄転ともいえるのかもしれません。

 辞令交付後に辞職すら考えたといわれる鴎外だが、小倉赴任後に軍医部長としての職務に励んでいたのは、やはりその重要性を認識したからではないでしょうか。

2012年11月4日日曜日

貝原益軒


 鴎外は第12師団軍医部長の間、小倉だけでなく、福岡、佐賀、熊本、大分と広範囲の視察を行ったいました。視察を兼ねて旧跡などを訪れることも楽しみとしていたようです。福岡の衛戍病院などを視察した際には、貝原益軒の墓を訪れています(明治32年9月26日)。

 貝原益軒は福岡藩(黒田藩)に仕えており、薬草学や朱子学など広い知識を持っていたようです。益軒は江戸時代初期の人で1630年に生まれ、没年は1714年というので85歳という長命の人でした。83、4歳頃に養生訓を書き上げた養生の専門家であるだけのことはありますね。

 そんな益軒が養生の実践としてあげていたものの一つに、食後の散歩があります。食後はすぐ横になったりせずに、数百歩の散歩をすることにより、食気を十分巡らし解消することを勧めていたのです。

 鴎外の書簡によれば、鴎外は食後に小倉の街を一時間ほどぶらぶらしていたようです。養生訓の教えを実践していたのではないかと、私は勝手に想像しています

2012年11月3日土曜日

貝嶋太助

明治33年10月5日 「・・・富豪貝嶋氏に舎る。・・・五十歳許りの偉丈夫なり。・・・(小倉日記)」

鴎外は、直方方面の視察に際し、かつて九州の炭鉱王の一人とされた貝嶋太助の豪邸に宿泊している。その時に会った貝嶋氏の印象を偉丈夫と形容している。偉丈夫というのは体が大きくしっかりしているという意味もあるが、立派な人物をさすこともある。おそらく鴎外はその両方の意味を込めて語っているのだろうと思う。

簡潔な文章で綴られている小倉日記の中にあっては目に付くほど、貝嶋太助のことについて記載している。太助の偉大さを長子から聞かされたという側面もあるかもしれないが、興味を持たなければわざわざ日記に書きとどめたりはしないだろう。邸宅のつくりや集められた書画なども、鴎外を驚かすものであったようだ。

太助は、父親の死もあり幼少から坑夫として働き、明治初頭からは炭坑業を行い、西南戦争に伴なう石炭価格の高騰で莫大な利益を上げたという。

活況を呈した石炭産業ゆえに、お金をばら撒く人がいたから、鴎外が人力車に乗せてもらえなかった事件もあったわけですが、貝嶋邸への宿泊で、鴎外が鉱業主を見る眼も少し変わったかもしれませんね。

なお、小倉日記の記載に倣って貝嶋と書いていますが、貝島と書くのが正しいようです。

2012年11月2日金曜日

福間博

福間 博

 明治八年に島根県に生まれ、同二十四年に上京してドイツ語の勉強をしています。鴎外が小倉へ異動となったのを知り、福間も小倉にやって来て、鴎外の押しかけ弟子になったというところでしょうか。


 小倉日記によると、明治32年10月12日に突然鴎外宅を訪れて、「東京にいるときから先生のことは知っていたがお忙しいようなので先生の教えを受けたいなどといえなかった。今はこちらに異動となり少しはお時間があるでしょうからぜひドイツ語を教えて欲しい。こんな遠くまでやってきたのだから無碍に断ったりはしないでほしい。」とかなんとか言ったようです。教えを請うにしては、かなりの押しの強さですね。その様子に鴎外は「狂人ではあるまいか・・・」とまで思ったようですが、試しにその辺にあったドイツ語の本を読ませると、百に一つの誤りもないという実力であり、その後師匠と弟子の関係になったようです。

 鴎外の世話で、山口高校の教職を得たようですが、鴎外が東京に戻るにあたりその職を辞して上京し、鴎外宅近くに住んだとのことです。そして明治38年4月から明治45年2月に病死するまで、第一高等学校教授として教鞭をとり、芥川龍之介や菊池寛もその授業を受けています。やたらと文法にうるさいドイツ語教師だったようです。

 また再上京後、女性関係でごたごたもあったようですが、詳しくは調べていません。

2012年11月1日木曜日

篠崎八幡宮

篠崎八幡宮
小高い丘の上に篠崎八幡宮があり、紫川や小倉の街を見わたすことができる。

 鴎外はこの神社の宮司であった、川江直種と親しく語り合ったことがあると小倉日記に記載がある。境内には、直種に関する記念碑のようなものはなさそうであるが、門司港の甲宗八幡神社境内にはその歌碑が建立されているらしい。宮司であり歌人であったとのことである。

 直種は九代藩主の小笠原忠幹に命じられ、1862年に別殿を造立させたとのことなので、1900年当時には少なくとも60歳近くにはなっていたと思われ、鴎外よりはかなり年上である。

 小倉での鴎外の交友範囲はかなり広そうである。鴎外が高名であるが故に人が近づいてくる、という面が強いであろうが、鴎外自身も人と接することが決して嫌いではなかったのであろう。