篠崎八幡宮 |
鴎外はこの神社の宮司であった、川江直種と親しく語り合ったことがあると小倉日記に記載がある。境内には、直種に関する記念碑のようなものはなさそうであるが、門司港の甲宗八幡神社境内にはその歌碑が建立されているらしい。宮司であり歌人であったとのことである。
直種は九代藩主の小笠原忠幹に命じられ、1862年に別殿を造立させたとのことなので、1900年当時には少なくとも60歳近くにはなっていたと思われ、鴎外よりはかなり年上である。
小倉での鴎外の交友範囲はかなり広そうである。鴎外が高名であるが故に人が近づいてくる、という面が強いであろうが、鴎外自身も人と接することが決して嫌いではなかったのであろう。
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