2012年11月10日土曜日

登志子



登志子
 鴎外の最初の妻は、海軍中将赤松則良の娘登志子である。この結婚はうまくいかず、1年ほどで離婚に至っている。原因は林太郎と登志子の不仲とするものが多いようだが本当だろうか。

 この結婚は、鴎外が動いたというより、周りが動きお膳立てした、家と家の結婚という色彩が強いように感じる。鴎外がドイツ留学から帰国直後の、エリーゼ・ヴィゲルトにまつわるごたごたを早く過去のものとしたい、との思いが森家特に母親に強かったせいもあるだろう。そのような結婚が、現在のように気が合わないくらいで解消されたりするものだろうか。

 登志子が病によりこの世を去ったのは、明治33年1月28日。鴎外は小倉で受け取った親友賀古鶴所からの封書に同封された新聞記事の切り抜きで、2月4日にそのことを知った。同日の日記には、「ああ、これは私の前妻である。長男於菟の母親である。美人とはいえないが、色白で背の高い女性でした。和漢文を読むことができ、漢籍などは白文でもすらすらと読んだものです。ちょっと理由があって1年ほどで別れました。今日は小倉の島根県人会が開かれるのだけれど、私は病気ということで参加はしませんでした。」というような一文がしたためてある。

海軍中将 赤松則良


 この文章からは、登志子のことを恨んだり憎んだりしていたとは、とても思えないのです。

 もし、この結婚がうまく行っていれば、海軍中将の義父と陸軍軍医の林太郎が会食などして打ち解けて話すようなこともあったでしょう。そして、海軍が取り入れていた麦食に関しても、陸軍が拘ることなく白米食から麦も提供するというふうになったかもしれません。そうなれば、陸軍から何万もの犠牲を出した脚気死者を激減させることができていたのではないかと夢想してしまいます。歴史に「もし」はないとはいえ。


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