2012年11月14日水曜日

寄稿

 鴎外は、西日本新聞の前身である福岡日日新聞や、今はない門司新報などに寄稿をしている。その数は、講演の筆記録を掲載したものを除けば、
「我をして九州の富人たらしめば」
「鴎外漁史とは誰ぞ」
「小倉安国寺の記」
「小倉安国寺古家の記」
「和気清麻呂と足立山と」
「即非年譜」
の6編に過ぎない。

 一方、東京日日新聞や二六新報など東京の新聞へは、「隠流」や「千八」などというペンネームを使って、森林太郎であることがわかりにくくはしながらも、いくつかの連載ものなどを寄稿している。

 小倉への左遷は、文筆活動に眼を付けられたという面が全くないとは言えないわけで、鴎外としても控えていたという側面があるだろう。しかし、やはり眼は東京に向いていたというところが最も大きいような気がする。

 鴎外漁史とは誰ぞ、の中で鴎外は死んだとしながらも、いや実は死んではいないと言い続けていたということだろう。

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