鴎外は、明治35年1月4日に志げとの婚礼をあげている。大審院判事である荒木博臣の長女である。この妻の名は、志げ、志げ子、シゲ、茂子などといろいろな記載を見かける。ただ、小倉日記では
1月4日 茂子を娶る。
と書いてあるので、茂子が正式な名前なのだろうか。それにしても、記載がこの一行です。
鴎外40歳、志げ22(23?)歳の新郎新婦である。1月8日に小倉に戻り、3月26日に小倉を発つまでの間、京町の自宅で新婚生活を送ったことになる。自宅から、小倉城内にあった司令部まで、この新妻はお弁当を届けていたとの話もあるようで、初々しくほほえましいことである。
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