2012年11月3日土曜日

貝嶋太助

明治33年10月5日 「・・・富豪貝嶋氏に舎る。・・・五十歳許りの偉丈夫なり。・・・(小倉日記)」

鴎外は、直方方面の視察に際し、かつて九州の炭鉱王の一人とされた貝嶋太助の豪邸に宿泊している。その時に会った貝嶋氏の印象を偉丈夫と形容している。偉丈夫というのは体が大きくしっかりしているという意味もあるが、立派な人物をさすこともある。おそらく鴎外はその両方の意味を込めて語っているのだろうと思う。

簡潔な文章で綴られている小倉日記の中にあっては目に付くほど、貝嶋太助のことについて記載している。太助の偉大さを長子から聞かされたという側面もあるかもしれないが、興味を持たなければわざわざ日記に書きとどめたりはしないだろう。邸宅のつくりや集められた書画なども、鴎外を驚かすものであったようだ。

太助は、父親の死もあり幼少から坑夫として働き、明治初頭からは炭坑業を行い、西南戦争に伴なう石炭価格の高騰で莫大な利益を上げたという。

活況を呈した石炭産業ゆえに、お金をばら撒く人がいたから、鴎外が人力車に乗せてもらえなかった事件もあったわけですが、貝嶋邸への宿泊で、鴎外が鉱業主を見る眼も少し変わったかもしれませんね。

なお、小倉日記の記載に倣って貝嶋と書いていますが、貝島と書くのが正しいようです。

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