2012年11月8日木曜日

門司ー赤間 連絡船

 鴎外が小倉にいた頃の門司駅は、現在の門司港駅のすぐ近くだったとのことである。鴎外が小倉へ赴任してくるときは、山陽鉄道は徳山までしか開業しておらず、そこからは船で門司まで来ている。明治34年5月に徳山から赤間(現在の下関)まで開通し、門司(門司港)ー赤間(下関)間の連絡船も就航している。

 明治34年12月29日 始て新連絡船を用ゐる 

 鴎外はこの時始めて、門司ー赤間間の連絡船に乗り、上京したことになる。この後も、しばらくはこの門司駅が九州の玄関口としての役割を果たしていたわけだが、関門トンネルの開業に伴い、1942年にそれまでの大里駅が門司駅となった。トンネルの出口がそれまでの門司駅よりずっと小倉よりになったためである。

 九州の玄関口としての門司港は、その役割を終えたことになる。現在はレトロ地区として再開発され、年間200万人程度の観光客が訪れると公表されている。

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