2012年12月31日月曜日

ポンペ・ファン・メールデルフォールト

 ポンペは幕末に西洋医学を日本に伝えたとして歴史に名を残すオランダ人である。ユトレヒト大学卒業後間もなく日本へ派遣された彼は、大学の講義ノートを全て日本に持ってきた。臨床の経験は皆無であっても、解読困難なオランダ語の原書をひっくり返しながらつまみ食い的な西洋医学知識しか有していなかった当時の日本にとっては計り知れない恩恵だったであろう。化学や物理などの基礎から内科、外科に至る系統的講義を、ポンペ一人で行うという超人的ことをやってくれたわけである。

 このポンペの日本における一番弟子が松本良順である。実は鴎外の父親である森静泰はその松本良順の弟子に当たるわけで、ポンペからみると孫弟子と言えるわけである。

 鴎外はドイツ留学の期間中、語学力をかわれて赤十字の国際会議に随伴している。そのさい、このポンペと出会い、言葉を交わしている。ポンペにとっては、自身の若き情熱を傾けた日本での仕事を思いだすとともに、目の前の鴎外も自身の仕事に繋がっていることに深い感慨を覚えたのではないだろうか。

2012年12月27日木曜日

水質検査

 鴎外はドイツ留学中に数箇所で勉強をしている。その一つがベルリン大学である。当時は細菌学の黎明期で、その世界的リーダーであったと思われるコッホの下で学んだわけである。同時期、北里柴三郎もその研究室に身を置いていた。

 鴎外に与えられた最初のテーマは、ベルリン下水道の細菌検査だった。その成果については分からないが、そこで身に着けた水質への問題意識はその後も鴎外の中に流れ続けたのだろう。小倉においても水質に関する公演をしたり、紫川の上流まで水質調査を行いに赴いたりしている。

 ベルリンで水質に関する研究をするおりには、当然その後小倉に赴任することになろうとは鴎外も思っていないだろう。しかし一人の人生を概観すると、無駄というものはなく、全てはどこかに関わっているものなのだろうと思う。今、此処、の一期一会が大切なる所以であろう。

2012年12月25日火曜日

森白仙

 鴎外の祖父、森白仙は津和野藩の典医であった。参勤交代に従い江戸まで来ていたが、体調を崩したようだ。典医の役目は、殿に付き従い、体調を守ることである。付き従えなければその役目を果たしたことにはならない。
 
 役目を果たせなければ、家禄が削られるという不名誉を受けることになる。そこで体調不良のまま、無理に帰途についた。しかし土山宿(東海道53次の49番目の宿)で病状が悪化し、亡くなっている。その後実際に森家の家禄が減らされたようである。

 この祖父の病気は脚気であったといわれ、脚気衝心で亡くなったたのであろう。日清戦争や日露戦争で、多くの兵士を脚気で死に到らしめてしまった帝国陸軍軍医部のお偉方に名を連ねた森鴎外の生涯を考えると、皮肉なことである。

 この白仙の墓を、鴎外は小倉赴任中の明治33年3月に一度だけ訪れている。東京出張への途次である。松本清張は、「両像・森鴎外」の中で、祖父が病気により役職を果たせなかった無念を、鴎外自身が感じている左遷への失意に重ね、訪ねてみる気になったのではないかと書いている。

2012年12月20日木曜日

軍都

 小倉に第十二師団を設置するにあたり、小倉の南にある北方の地において、40万坪以上の土地が買い上げられたという。その土地には、様々な施設が作られるわけであり、建設業、土木業、工業、鉱業、商業など様々な産業が大いに刺激された。

 寒村であった小倉が、軍都へと変貌を遂げていくわけである。鴎外が赴任する数年前から、大いに活況を呈し始めたばかりの町は、新旧入り混じった状況であったろうと思われる。また、周囲からいろいろな人間が流れ込んできたであろうから、治安が良いとはいえない状況も多かっただろうと想像してしまう。

 その後、第二次世界大戦が終わるまで、北九州地域は軍都としての色彩が濃かったのではないかと思う。

2012年12月18日火曜日

ベルツ水

 鴎外の大学の恩師の一人であるベルツは、ベルツ水という化粧水を創った人物としても有名である。箱根の富士屋ホテルに妻の花と宿泊中、女中の手が荒れているのを見た。花によると、手荒れの薬はヘチマ水くらいしか日本にはないと聞き、肌荒れ用化粧水として、グリセリン、アルコール、水酸化カリウム、芳香性の精油、蒸留水などを混合して作ったとのことである。

 妻の花は、荒井はつ(ハナ、花、花子)。ベルツが29年の日本滞在を終えてドイツへ帰国する際には、共にドイツへ渡ったとのこと。


2012年12月15日土曜日

森篤次郎



明治321018日  …篤次郎の東京印刷株式会社工場顧問となりし…
            (小倉日記)

~~~~~~~~~~~

 鴎外の弟(次男)が森篤次郎である。鴎外と同様、帝国大学医科大学を出て、医師となっている。また、幼少時より馴染んだ芝居見物が一生の趣味となり、歌舞伎の劇評家として有名であったという。学生時代も芝居見物故に大学への出席日数が少なかったらしい。

 劇評家としては、三木竹二という名で文を書いていたようで、彼の仕事は歌舞伎の世界では大きなことだったとされているようだ。写真はWeb上で見つけてきたものだが、鴎外と似ているような似ていないような、といったところか。40歳で亡くなっている。

2012年12月13日木曜日

船旅

森林太郎がドイツ留学へ向かう際の航路
鴎外は医学部卒業後のドイツ留学を強く希望していたとされる。明治になりドイツ医学を第一とする政府の方針故なのだろうか。

 ドイツに向かうとなれば、当然船。途中寄港地はあるにしろ、2ヶ月近くの船旅というのも大変そうである。

 帰る時にも当然同様の時間がかかるわけだ。もちろんお金だってかかる。

 そんな船旅をしてまで、エリーゼ・ヴィーゲルトは日本までやってきた。ある程度の約束が、林太郎とのあいだでなされていなければ、来ないだろうと思う。エリーゼ・ヴィーゲルトがどこの誰かはまだ特定されていないようであるが、舞姫で描かれた踊り子のような身の上ではなかったとされているようだ。

 また、エリーゼの旅費を一体誰が出したのかも、霧の中らしい。林太郎が捻出したのではないかと推測するものもいるようだ。

2012年12月11日火曜日

ノート

医学部時代の鴎外のノート
現代の医学部の講義の中では、整形外科の教科書に包帯法のことは出てくると思うが、その実習などは行われない場合が多いのではないかと思う。

 包帯は、創の被覆保護、圧迫、固定、患部の安静保持その他に使用される。現在でも看護科の授業では実習があるのかもしれない。

 鴎外の時代、特に軍医にとっては、包帯法は必須の授業であったであろう。外傷治療の進歩は、歴史的に見ても戦争中に進歩したと言われており、外傷の治療と包帯法は大いに関係があるからである。

 鴎外のこのノートの記載は、まさに包帯法についてであろうと思われる。ドイツ語を綺麗な字で書いていることとともに、丁寧な絵が印象的である。その頃の学生は、みなこれほど丁寧にノートをとっていたのであろうか。それとも中には、良さそうなノートを借りて写す輩もいたのであろうか。

肝膿瘍

明治32年8月5日 歩兵大尉水町恒一郎の葬を送る。肝膿瘍に死し…

~~~~~~~~~~~

 細菌感染に対して抗生物質を使うのは、現代では当たり前となっている。しかし、初めて抗生物質が発見されたのは1929年のことであり、明治32年には存在しなかった。怪我などで細菌が体内に入れば、それで命取りになることは決して稀なことではなかった。

 肝膿瘍となれば、抗生物質のある現代でも治りにくい場合が少なくない。上記の大尉は剖検(解剖)を行われたこともあり、その葬儀に鴎外も参列したのであろうか。その剖検自体に鴎外が関わったかどうかはわからない。

 鴎外のことを調べていると、なんだか鴎外もつい最近の人物のような気がしてくるのだが、抗生物質のない時代と考えると、やはり随分昔の話なんだと思う。

 ちなみに、初めて発見された抗生物質はペニシリンで、フレミングによって青かびから単離されています。鴎外が亡くなってから約7年後のことです。

2012年12月10日月曜日

福島安正

明治32年7月28日 福島安正の演説するところ列国均勢の…

~~~~~~~~~~

 福島安正が小倉に来て演説をしたのか、どこかでした演説の報告があったのかははっきりしないが、その内容は鴎外にとっても、「耳を傾くるに足るものあり」と感じる内容であったようだ。恐らく福島自身が見聞した内容を交え、今の西欧情勢を語ったものだったのであろう。

 福島安正は陸軍軍人で、単独で馬に乗って冬のシベリアを横断したことで知られている。ロシアが極東への物資輸送を考えシベリア鉄道の着工を行うとの情報を実際に見て確かめるという意図のある単騎行であり、諜報活動が目的であった。490日に及ぶ行程で得た様々な情報は、当時の軍部にとって非常に貴重な内容だったとされる。

 当時、極寒のシベリアを単独で横断したものなどはおらず、ロシアの各地では歓待されたりもしたようである。ベルリン、モスクワ、シベリア、ウラジオストックと約1万4千Kmを490日という時間をかけ、20頭以上の馬を乗り潰し敢行したという、とんでもない人物。今なら冒険家として紹介されても良い人物である。

 その単騎行からまだ6年程度しか経過していない時期の彼の話は、まだまだ新鮮だったであろう。ちなみにこの翌年の1900年(明治33年)4月には、陸軍少将として西部都督部(小倉)に赴任している。

2012年12月9日日曜日

地図

「明治32年6月29日 夜吉田茂太郎至る。小倉地圖稿を示す。同年7月1日 吉田の地圖成る。」

~~~~~~~~~~~~~~

 吉田は福岡出身の軍医で、日清戦争の時は鴎外の部下だったとのこと。29日に作成中の小倉の地図を鴎外に見てもらいに来たのだろう。地図を作ることを鴎外から指示されて作ったのかもしれない。新任の軍医部長として、その地の地勢を知ることをまず第一としたのだろうか。その2日後の7月1日に完成している。

 鴎外は東京に戻ってから東京方眼圖という地図を作成している。地図を方眼に区切って表す手法は、当時の日本にあっては珍しいものだったらしいが、東京方眼圖の完成品は販売にまでいたったとのこと。地理を知るということに、鴎外は重きを置いていたのでしょう。

 鴎外は完成した小倉地圖を片手に、小倉にある軍施設などを視察して回ったのでしょう。その地図は今東大に保管されていると聞くが、一度見てみたいものである。

2012年12月8日土曜日

麥酒

 日本におけるビールの歴史はよくわかりませんが、もともと入ってきたのはイギリスのビールであったろうと思います。しかし明治になりドイツビールが入り、プロシアがフランスに戦争で勝ったこともあり、ドイツかぶれといってもいいような世相も反映し、ドイツビールが主になったのでは思われます。プロシア軍の伝統的儀式とされるビールの一気飲みも、当時のドイツへ留学した帝国陸軍将校などによりもたらされたことでしょう。

 森鴎外もそのころのドイツに留学しています。自分はビールをせいぜい2ℓ程度しか飲めないのに対し、ドイツ人が12ℓ程度を飲んでしまうのに驚いたようです。そして鴎外の書いたものには、ちょくちょくビールが出てきます。

 小倉日記の中にも「麥酒を酌みて時事を談ず」などという記載があります。そのビールは日本で作られたものなのか輸入ものなのかは判りかねますが、きっと安いものではなかったでしょう。

 またうたかたの記では、陶器製の蓋付ビールジョッキの事なども書いています。さて時事を談じたときはどのような器でビールを飲んだのでしょうか。東京の森鴎外記念館には、鴎外のものとして蓋付ビールジョッキを展示していましたが、小倉にまで持ってきていたのでしょうか。

2012年12月5日水曜日

翁草


 国語の教科書で読んだ鴎外の小説の中に、高瀬舟がある。この小説の題材は翁草という随筆集から得ているという。これは、京都町奉行所の与力を務めた神沢貞幹(1710年~1795年)が記述したもので、明治38年(1905)に全200巻が刊行されたようである。鴎外はかなり興味を持ってこの随筆集を読み込んだようで、鴎外の書き込みのある本が残されているとのことである。

 都の大火を記録したものとしては、鴨長明の方丈記が有名であるが、神沢貞幹(杜口:とこう)はそれ以上の筆致で、天明の大火(洛陽大火、1788)の仔細を翁草の中に書き残している。その時の杜口は79歳。火事の火元からその時々刻々の広がる具合まで、恐らく自分の足で取材をして記載したものと思われる。

 この翁草のなかに、同心が船中で流人と語った内容が記されており、そこから鴎外は高瀬舟を紡ぎ出したわけである。江戸時代に安楽死という概念があるとは思えず、杜口自身がそれを念頭においていたとは考えられないが、そこに鴎外はユウタナジイ(安楽死)の問題を感じ取り小説としたのであろう。そこのところは鴎外自身が高瀬舟縁起の中で語っている。

2012年12月2日日曜日

田山花袋

「渠は歩き出した。 銃が重い、背嚢が重い、が重い、アルミニウム製の金椀が腰の剣に当たってカタカタと鳴る。その音が興奮した神経をおびただしく刺戟する…息が非常に切れる。全身には悪熱悪寒が絶えず往来する。頭脳が火のように熱して、※(「需+頁」、第3水準1-94-6)がはげしい脈を打つ…腰から下は他人のようで、自分で歩いているのかいないのか、それすらはっきりとはわからぬ。…頭脳がぐらぐらして天地が廻転するようだ。胸が苦しい。頭が痛い。脚ののところが押しつけられるようで、不愉快で不愉快でしかたがない。ややともすると胸がむかつきそうになる。…黎明に兵站部の軍医が来た。けれどその一時間前に、渠は既に死んでいた。」

 上は、田山花袋の小説「一兵卒」から抜き出したものである。全文を青空文庫で読むことができる(http://www.aozora.gr.jp/cards/000214/card1066.html)。一人の日本兵士が、戦闘ではなく病気で死にゆくさまが描かれており、その絶望に、短い小説にもかかわらず、読んでいる途中でときに読むのをやめてしまいたくなる。

 この兵士の症状は脚気と思われる。脚気から脚気衝心となり死に至ったものであろう。

 田山花袋の名は、文学史では「布団」の作者として出ている場合がほとんどであるが、彼は従軍記者として日露戦争の戦地に赴いている。赴く前の広島で始めて鴎外と知り合うことができ、戦地でもしばしば鴎外と語らう時間を持ったと言われている。日清戦争や北清事変と同様、その日露戦争においても陸軍兵士の多くが脚気衝心で命を落した。その様子をつぶさに見ていた田山花袋であるからこそ、一兵卒という小説をかけたのであろう。