黒木為禎が西部都督(小倉)にいるころ、鴎外も赴任したことになる。薩摩藩士の子供で、日清戦争の時には第六師団長として出兵している。日露戦争においては第一軍司令官となる人物であり、ロシアとの戦争が避けられないとの見方が出てきていた1900年頃に黒木近衛師団長が小倉にいたということは、やはり戦争という面から小倉がかなり重要な位置を占めていたことが窺われる。
小倉日記にはあまり出てこないので、鴎外との交流はそれほどなかったのかもしれない。日露戦争では、その勇猛果敢な戦術から、ロシア軍からはクロキンスキーとあだ名され、黒木率いる軍隊はくろき軍として恐れられていたという。
またロシア軍を破った軍人として、アメリカでは乃木などより有名だったようだ。
森鷗外が小倉に軍医部長として赴任した際の小倉日記を紐解くと、北方衛戍病院をしばしば訪れていることがわかります。この病院は、現国立病院機構小倉医療センターです。このブログは鷗外と当院(小倉医療センター)や小倉との関係を中心に、興味ある事項についての忘備録のつもりで綴ります。 内容に誤りがあったり、何か情報があったりいたしましたら、コメントで寄せていただけるとありがたいです。
2013年1月11日金曜日
2013年1月10日木曜日
つながり
鴎外は多分野で足跡を残した人物であり、その人生を語る書物も多く存在する。それらを読んでみると次から次と有名人が出てくるし、その流れは幕末にさらには江戸時代へも繋がっていく。一人の人生が、多くの出会いと別れ、繋がりの中で織り成されていくものである、ということに改めて思い至る。
わが身を振り返ってみると、有名無名の差は大きいとはいえ、やはり数え切れぬほどのつながりの中、今という時代を漂い、生き、生かされていることを感じる。
研究者と呼ばれる人の中には、誰それの研究が専門、という具合に、ある人物の足跡を研究する人がいる。これまで、そういう研究に何の興味もなかったが、一人の人物を研究することはその一人にとどまらないことが少しわかってきた。一人の人物をとおして、その人の生き様を思い、生きた時代を感じ、多くの人物についても研究し、結局人生そのものについての思索を深めていくということになるのだろう。
このようなブログを立ち上げたのも何かの縁。もう少し鴎外について、学んでみたいと思う。
わが身を振り返ってみると、有名無名の差は大きいとはいえ、やはり数え切れぬほどのつながりの中、今という時代を漂い、生き、生かされていることを感じる。
研究者と呼ばれる人の中には、誰それの研究が専門、という具合に、ある人物の足跡を研究する人がいる。これまで、そういう研究に何の興味もなかったが、一人の人物を研究することはその一人にとどまらないことが少しわかってきた。一人の人物をとおして、その人の生き様を思い、生きた時代を感じ、多くの人物についても研究し、結局人生そのものについての思索を深めていくということになるのだろう。
このようなブログを立ち上げたのも何かの縁。もう少し鴎外について、学んでみたいと思う。
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